結局、お賽銭は神様や神社だけに納めているものではなく、自分自身にも依り代として奉っているのです。神社での祈りは既にセレモニーですから、「奉る」ことができるのであれば、金額はいくらでもよい=お気持ちでいいんですよ、ということになります
祈りは、別に神社でなくても日々の生活のなかでできますし、生き方とあり方そのものがすでに祈り=意乗りです。自分の意図と意識がなければ、人は動けないのですから![]()
しかし、人は目に見えるものを重視し、また目に見えるものがあったほうが意識や意図をしやすいので、現代社会で重宝されているお金を依り代にしやすいのは確かです
ちなみに、自分の意図や意識がそのまま跳ね返ってくるのは、神社の前の鏡だけではなく、日常においても、死ぬまで自分の前に鏡があると思っていたほうがいいでしょう
つまり、日常考えていること思っていることは、空気のように目に見えないのですが、それは確実に自分へ発しているモノ、という意識は保っておいたほうがいいとも言えます
繰り返しますが、普段感じていること、観じていること、思っていること、意図していること、意識していることは、「平等」にそのまま自分に返ってきています
これが、「神が人を平等につくった」という言葉の一つの意味でもあります
思うこと、意図すること、考えること、これは裕福な家に生まれなくても、お金がなくても、恋人がいなくても、誰にでもラクラクできる才能です。やはり平等に与えられており、実はこれこそがすべてでもあります![]()