ここらで、その亡命ルートが最も注目されるヒトラーの足跡を辿ってみるが、その前に、戦後、連合国側から出された「ヒトラー死亡説」について言及してみたい。

 

まず、ヒトラーが拳銃で自殺したとされる地下壕の総統執務室の壁や家具に付着していた血液を調べたところ、ヒトラーのものではなかった。

 

 

また、ソ連側が発表した(自殺した後ガソリンをかけて全身を焼いたはずの)”ヒトラーの死体の顔写真”も、ベルリンにいたヒトラーの”ダブル(影武者)”のオウガスト・ウィルヘルム・バーソルディという食料品店の主人のものであることが判明し、1945年5月7日のタイム誌でも発表されている。

 

 

さらに、ベルリンに一番乗りしたソ連軍が発見し、持ち帰ったとされる”ヒトラーの頭蓋骨”だが、これがヒトラーのものと判断された根拠は、ヒトラー専属の歯科医師ヒューゴ・ヨハネス・ブラスキのカルテにある。が、このカルテ自体はヒトラーが受診した際に都度記録されたものではなく、戦後、ソ連軍による歯科医師への尋問の際、その供述をもとに作成されたもので、客観性に欠けるきらいがある。

 

一方で、CIC(米国陸軍情報部)によるヒトラー専属医師団への調査レポートでは、「ヒトラーの身長は175センチから178センチだった」とされているが、ヒトラーの専属パイロットだった空軍中将ハンス・バウワーによると、ヒトラーとバウワーの背丈はほぼ同じで170センチ程度だったという。

 

歯科医ブラスキの証言によると、本物のカルテは、事前にヒトラーの命令でどこかに持ち出されたというが、そもそも自殺を覚悟した人間が一々このような無意味な証拠隠滅工作をするだろうか。

 

それどころか、その後の調査でこの頭蓋骨は女性のものであることが判明した。ならば、それはヒトラーの愛人(のちに妻)となった、青酸カリを飲んで自殺したといわれているエヴァ・ブラウンではないかという説が出たが、この頭蓋骨のこめかみ部分には拳銃で撃ち抜いた穴が空いている。

 

1945年10月5日のニューヨーク・タイムズ紙でも、ドイツ空軍のピーター・ボムガー大尉が、「1945年4月26日にヒトラーとエヴァ・ブラウンを飛行機でデンマークに運んだ」との供述を紹介している。

 

また、1948年1月18日付で、チリ・サンチャゴのエル・メルキュリオ紙は、「ドイツ兵ヒトラー逃亡を目撃。ナチスの報復を恐れた元ドイツの戦車兵は、匿名を条件に1945年4月29日、ヒトラーが傷病者運搬用戦車で官邸を出るのを目撃した」と報道。

 

さらに、同じチリのエル・ディアリオ・イルストラード紙では、ベルリン・テンペルホフ空港関係者へのインタビュー記事として、以下のような内容を掲載している。

 

「1945年4月30日、ベルリンはソ連軍の完全包囲下にあった。しかし、テンペルホフ空港だけは違っていた。ラジオやレーダーなどの地上援護施設だけは最高の効率で動いていた(まるでソ連軍はヒトラーの逃げ道を確保するかのように)。飛行機の離着陸もスムーズで、六分おきに一機が着陸し、一時間に十機が離陸した。大砲やマシンガンの音は間断なく聞こえていたが、高速戦闘機やジェット戦闘機がエアスペースを確保するため上空を旋回していたためか、滑走路は小さなダメージしか受けていなかった(空港への砲撃はできるはずだったが)。

 

午後四時十五分、一機のJU52輸送機が給油のため着陸した。(中略)この最中、百から百二十メートル先にスラリとしたメッサーシュミット・モデル332を見た(ターボジェット機で飛行距離四千キロを誇る)。ところが、なんとそのそばに間違いなく彼らの最高指揮官のアドルフ・ヒトラーが立っているのを目撃したのである。

 

灰色のユニフォームに身を包み、何人かの見送りの人間と親しそうに話しをしている身振りであった。かれらの飛行機が給油される十分くらいの間この光景を見ていたが、四時三十分ころ飛行機は飛び立った。彼らが驚いたのは、その七時間半後の真夜中の軍事ニュースで”ヒトラーの死”を聞いた時である」

 

ニュルンベルク裁判の記録にも、「1945年4月30日にはテンペルホフ空港から十六機の飛行機が離陸し、一機はヒトラーの私財を載せていた」とあり、英国諜報機関MI6の文書には「1945年4月29日にテンペルホフ空港からヒトラーを乗せた」というドイツ空軍パイロットのバウム・ガルト供述が記されている。

 

一方、同じくチリのジグ・ザグという1948年一月十六日付の新聞記事では、「1945年4月、ピーター・ボムガードというドイツ空軍大尉は、アドルフ・ヒトラーとエヴァ・ブラウンをテンペルホフ空港から、ドイツ占領下のデンマーク・トンダーまで送った。そこで別の飛行機に乗り換えた一行は、ドイツ占領下のノルウエー・クリスチャンサンドへ向かった。Uボートの基地でもあったクリスチャンサンドにはドイツ潜水艦隊が待っていた」とある。 

 

ベルリン陥落後、ドイツ海軍元帥総司令官のカール・デーニッツからUボートを含む全ての艦船に対し、直ちに最寄りの連合国港湾施設に寄港、投降するよう命令が出たが、四十六隻のUボートだけは投降しなかった。

 

ところが、1945年7月10日、超最新鋭の大型Uボート・U530がアルゼンチン・ブエノスアイレス港で投降した。アルゼンチン当局は彼らの目的地や役割、7月になった理由などについて執拗に尋問したが彼らの口は堅く、ただ「ノルウェーのクリスチャンサンドから出港した大護送船団の一部であった」との供述のみ引き出した。そのU530には五百四十個のドラム缶が積まれていて、中身はたばこだったが、潜水艦乗組員の常識として五十八人のうち一人として喫煙者はいなかったことが様々な憶測を呼んだ。。

 

このように様々な情報が錯綜する中、ベルリン陥落後の1945年7月17日から8月2日にかけて行われたポツダム会談のとき、米国務長官ジミー・バーンズがスターリンに尋ねたところ、スターリンは「彼(ヒトラー)は死んでいない。スペインかアルゼンチンに脱出している」と語っている。

 

(次回に続く…)