「22時 文京区 東京ドーム」
「あーあ。負けちゃった。
あそこで誰かが打ってたら、
ショウちゃんが出て来て
投げたかもだったのにー」
友香は誰かに聞いてほしいけど、誰にも聞かれちゃいけないくらいの声で呟いた。タバコ吸いに行こうかなって思ったけど、まだ手元の紙コップには持ち歩いてつまづいたらこぼれちゃうかもくらいのビールが残ってる。「もう少し飲んでから吸えばいいか」と思いなおし、客席シートにちょこんと座り直した。東京ドームのスコアボードは、10回裏のスペースに「0」をつけてゲームセットを告げた。10対5―。まさかの大逆転負けに、それぞれの守備位置からベンチへ戻ってくる選手達の足もトボトボに見えてくる。友香の応援していたジャイアンツは、7回まで3点もリードしていたのに8回表に追いつかれた。それでも9回裏に1アウト満塁、バッターは4番と一打サヨナラのチャンスを作った。そして、4番が相手ピッチャーの球をはじき返した打球はグン!と高く上がってサヨナラホームラン…まではいかないもののレフトの深いところまで飛んだ。その距離から考えて「犠牲フライでサヨナラだ!」と思えたのにレフトの選手が好返球。タッチアップのランナーもホームアウト。サヨナラ勝ちのはずがダブルプレーで延長戦へ―。こうなるとゲームの勢いは相手に傾く。10回の表に5点も取られてはもうダメだ。試合終了が22時を回る長いゲームになったのに、友香が「サヨナラゲームの乾杯用に」と手にしたビールも「ショウちゃん登場の期待」もどちらも空振りに終わってしまった。
「あーあ。今日は出番はなかったなー」
友香は誰かに聞いてほしいけど、誰にも聞かれちゃいけないくらいの声で呟いた。
◇
―ピッチャー●●に代わりまして下山。
というコールがスタジアム全体に響き渡り、満員の観客が「ワッ」と沸く瞬間が友香は好きだけど大好きでもない。もちろん「ショウちゃん頑張れ」とも思っているが、同時にその名前が流れた瞬間はうまく言えないけどなんだか変な動悸に襲われるからだ。「友香しか知らないショウちゃん」が「みんなの下山投手」になっていて、その下山はマウンドでは無表情なままで淡々と勝負を片付けていく。勝負で「下山」は絶対に熱くならない。淡々と相手の嫌がるところ、弱点を確実に攻めて打ち取るのが「下山」の投球スタイル。試合後のコメントも少ない、短い、味気ない。その冷静すぎるくらいに落ち着いた配球と雰囲気から「処刑人下山」って呼び名もつけられているくらいだ。でも友香の知っているショウちゃん―彼女の家にいる時の下山―は全くの逆。たまたま見た子供向けアニメなんかにもすぐに感情移入して涙を流すほど感受性豊かな31歳だったりする。そのギャップには、友香自身も「どっちが本当の彼の性格なんだろう?」って思う時があるのは事実だが・・・。
とにかく今日の試合、「ショウちゃん」の出番がなかったことは、友香にとってはとても残念だったがそれでも「ま、いっか。今日金曜日だし」とつぶやいて気分を切り替えた。
今日は金曜日。「金曜の夜」っていう、
友香にとって一番大事な時間が始まる―。
その「大事な時間」を前に、しばらくはここから動いても仕方ないことを知っている。だから、周りの人達のように慌てて客席シートから動くこともなく、ビールを飲みながらさっき終わったばかりの試合を1人思い返す。
―今日は1人じゃない形で試合楽しめたな。
今日の友香は、偶然隣に座ったおじさんの野球解説にずいぶんと楽しませてもらいながらのゲームを観戦した。大学野球部出身と言っていたそのおじさんは確かに招待客の多いスペースに座っていたし、サラリーマンにしては立派な身体だったこと、野球部出身らしい大きな声だったことから考えて、とそれはきっと本当だと思えた。そして野球についていろんなことを頼んでもいない友香に話し続けた。ジャイアンツの選手にも後輩が何人もいると言いながら、
「まぁ年も20くらい違うから、全然関係ないんですけどねウッアッアッハ。」
「収入も雲泥の差で向こうが上だけどね。
ウッアッアッハ。」
と自虐するような話題を自分で大笑いしながら友香に話した。そうかと思えば、
「この後はもう
シュートひっかけて終わりだよ」
「あー。ピッチャー変えないとこれ、
打たれちゃうよ。
レフトに流して2点入るよ」
と玄人目線で語るその分析を次々と当手て見せた。そして、その玄人目線で「ショウちゃん」については
「今日はもう下山は出ねえな。
なんだよチクショウ。
あいつのストレート見に来たのに」と
残念がって友香を内心喜ばせた。さらには、
「知ってます?下山のストレートは回転があり過ぎて浮力が生まれるから、下に落ちないんです。あれ相当ヒジと手首に負担来ると思うけど、あれはすごい。
打席に立った奴が言ってたんですけどね?あ、俺の後輩でタイガースの3番の野上。知ってます?野上。3割でホームランも30本打ってる奴。あいつ俺の後輩なんですけど、その野上が下山の球は目の前をミサイル通過する感じって言ってたから相当ですよ」
と褒めちぎった。ただその後、
「野上が後輩って言っても10歳くらい下だからあんま面識ないですけどね。でも先輩風吹かせますけどね。なぜならそれが『野球の世界の常識』だからウッアッアッハ」
なんて余計な話も聞かせたわけだが、とにかく「ショウちゃん」を褒めてくれたことが、友香にはたまらなく嬉しかった。まぁ、もしかしたら向こうは若い女性―といっても31歳だけど―の友香と楽しく話したかっただけかもしれない…という考えも友香の頭には一瞬よぎったが、とにかくいつも1人観戦とは違う形の楽しいゲーム観戦になったので満足していた。
普段の友香はもらったチケットの席に1人で座って、1人で観戦して、1人で球場を出る。内野のいい席を取ってもらえることでゲーム自体は見やすいが、ずっと1人だから周りで友達や彼女や家族と盛り上がって見てる人を少し羨ましいなと思う時もあるゲーム観戦だ。それでも友香は、友達とは行けないから仕方がない。「私とショウちゃんのことは誰にも言えないから仕方がない」と思っているからなおさらだ。ただ、今日隣に座った野球部出身おじさんからは・・
「1人でこんないい席で観戦して
すごいですね。あれ?もしかして…
誰かの彼女とか?
週刊誌とか出ちゃったりしないように
気を付けて下さいね。ウッアッアッハ」
…と半分当てられたことにはびっくりさせられ、さらには…
「お姉さんかわいいですね。
タレントとかやてました?
でも売れなかったとか?ウアッハッハ」
・・・ってばっちり当てられてしまっていた。
友香には、時々思うことがある。
―自分と同じような境遇で選手を
応援してる人って、
スタジアムに何人くらいいるんだろう。
中には、もしかしたら同じ選手を同じ目線で見てる人が同時にスタジアムにいる時だってあるのかもしれない。とも思う。友香自身が2番目だから―下山投手にとっての2番目だからそう思うのだった。
◇
「正直な話、金曜日の試合終わりが
1番ホッとする。
試合終わったらトモに会えるからです」
友香が「ショウちゃん」にその言葉をもらったのはもう3年も前の話だ。「ショウちゃん」が友香の家に来るようになって何度目かの帰りに渡されたメモ手紙に、そんな「感情的な言葉」がプロ野球選手とは思えないような丸い文字でつづられていたのだ。そして「丸い文字のメモ手紙」は、その後も沢山もらうようになり、友香はそのほとんどを取ってある。時々、その1枚1枚を見返しながらいまだに「こんな関係になるなんて全然考えもしなかった…」と付き合い当初のことを思い返すことも珍しくない。
友香が初めて「ショウちゃんの登板」を観戦したのは出会って3か月くらいが経ったシーズン半ば、夏の東京ドームだった。そしてその日招待席で見せてもらって以来、彼が投げる日はほぼ毎試合観戦に足を運ぶようになっていった。出会った頃の「ショウちゃん」は先発だったので、友香がドームへ行く日も限られていた。でも今年からショウちゃんは「抑え投手」にシフト。その結果、試合に出るか出ないか分からないままに毎回足を運ぶようになっている。
試合の日、友香はいつも派遣の仕事を定時の5時で上がってまっすぐ東京ドームへ向かう。会社のある三田からは地下鉄で1本。「招待シート」で1人で試合を見て、終わったら1人で帰る。水道橋駅の改札を入ったら中央線、京王線、京王井の頭線と乗りつぐ帰り道でラインを送って、ショウちゃんからの返信を気にしながら家に帰るのが常だ。だが、試合が「金曜日」の時だけは状況が違う。試合が終わったら球場を出て、水道橋駅の改札を横目に白山通りをまっすぐ歩いて、近くのファミレスへ。そこでショウちゃんからのメッセージが来るのを待つのが「金曜日の試合後」だ。友香の家で待ち合わせか。ベンツで拾ってくれる場所に移動するか。彼の指示を待つ。
―金曜日だけはショウちゃんに会える。
下山選手じゃないショウちゃんに会える。
‥それが友香のモチベーションの全部だった。
プロ野球選手は試合が終わったらすぐに帰れるわけではない。インタビューを受けたり、シャワーも浴びたり、その場でマッサージなどのケアを2時間も3時間も受けて帰る選手だっている。この3年の間に友香は「ショウちゃんの場合はシャワーとアイシングと…球団の人との軽い打ち合わせなんかも済ませてやっと出てくる時だってあるから早くても2時間はかかる」とすっかりその状況を把握していた。だから「試合終わりに会える金曜日」でも、こっちだけ慌てても仕方がない。その余裕から友香は、スタジアムに集まった5万人の大半が席を立っても、腰も上げずに残りのビールをゆっくりと口に運ぶ。そして、誰もいなくなった前の座席に、行儀悪く脚を乗っけてリクライニング気分に浸りながらつぶやいた。
「お疲れ様。
今日は出番なかったけどお疲れ様だよ。
とりあえず乾杯~トリカン」
友香が手にしているビールは、今年からケンちゃんがCMのイメージタレントの1人をやってるメーカーのビールだ。CMでは、ケンちゃんが投げたボールが銀色のビール缶に形を変えて、美味しそうな泡を吹き出す。友香はそのCMが大好きだ。本当は今日も、ケンちゃんがCMで言ってるセリフで乾杯って言いたかった。
「最高の勝利のそばに最高の乾杯!」
◇
「トモって、俺が勝っても負けても
試合のこと 何も言わないよね?
でも試合は見てくれてるのは事実。
正直、そういう存在ってすごい救われる」
付き合いが始まって1年経った時に言われた言葉を、友香は今もしっかり覚えている。
この一言が励みになって、できる限りドームに観戦に通うようになっている。「ショウちゃん」が打たれなかったらもちろん友香も嬉いし、打たれてしまえばもちろん悲しいし見ているのも辛い。それでも「ショウちゃん」の言葉を思い出して「ちゃんと試合見なくちゃ」って思いなおして乗り越える。そして乗り越えると、次の試合とかまたその次の試合で「ショウちゃん」がまたいいピッチングを見せてくれることで、救われた気分になる。だから今の友香はもう、試合がどんな形になっても見守るのは大丈夫。それよりも乗り越えるのが大変なものが彼女にはある。
―「ショウちゃんの恋人の存在」がキツイ。
(続)