―杉並区永福町。
美恵の経営する赤提灯。
店内では常連の杉さんが1人まったり…。
ところが、その空気は店1番の常連の若手・
美佐代が入ってきたことで一変する。
どこか達成感を感じさせる口調で
「有楽町の居酒屋で、彼と別れて来た!」
という美佐代に対し、
美恵の表情が一変して‥
◇
「あんたねぇ・・」
―やっぱり始まった。
何か注文しようと本日のおすすめを眺めていた美佐代の視線も「メニューはいいから、適当に出してあげるから、こっち向いて話を聞きなさい」と捕まった。美恵は鍋が乗ったコンロに火を入れる。
「おでんでいいわよね?」
「はーい。」
―他を頼めるわけもない。
「勇太くんいい人なのに何で別れたの?もう」
「ねー。」
「ねーじゃないの!
大人をバカにしないで答えなさい!」
「はーい」
「で。なんで別れたの?」
「うーん、色々考えることもあってさ。
とにかく頑張って別れてきた。
なんかねぇ、面白くなかったんだよね。
色々。ね?杉さん、そういうことあるよね?」
何となくた助け舟を期待して杉さんに話を投げてみたが効果なし。優しく目尻を下げながらお猪口を手に聞くだけだ。いくつになっても恋愛話は女性の出番だ。やっぱり美恵が割りこんでくる。
「別れたくないって、
何回も言われたでしょ?」
「すごい!何で知ってんの?
そう、何回も言われた。」
美佐代は美恵の的中した予想に、少し大きな声で答えた。
「やっぱり・・」
「何で知ってんの?」
「私は何でも知ってるの」と不機嫌の中にも少し得意そうな顔を一瞬見せて美恵は続ける。
「で、何回も別れたくないって言われて、
あんたはどうしたの?」
「うーん。別れるって決めてたから
『転勤した』って嘘ついといた」
「転勤?」
「うん」
「どこに?」
「実家。広島に。で、
『私、遠距離無理だから別れるしかない
と思う』って嘘ついといた」
「この子はもう!」
そういうと美恵はタバコに火を付けた。美佐代は美恵の説教モードがもう1段階上がったと覚悟する。
―これはもう…おでんも温まっても
しばらく出してもらえないな。
「美佐代あんた・・・そんな嘘ついて、
もしも街でバッタリ会ったらどうするの?」
「私、井の頭線の永福町。あの人、中央線の
阿佐ヶ谷。同じ杉並区だけど沿線も
違うから、そんなに会わないよ?ね?」
「もぉう・・・」
美恵はたばこの煙を換気扇へとフーッとやった。美佐代には、それが一瞬、それ以上の説教を吹き飛ばしたようにも見えた。が、それはやっぱり気のせいだった。「大体なんで別れたのよ。もう少し詳しく話なさいもう!」とその尋問は勢いを失う気配はゼロ。ここまで「東京の母」に強く言われると正直に答えるしかない。
「何かねぇ、付き合ってても
つまんなかったんだよね。ずっと」
「ずっと。ってもう・・・
また、そんなことを言う」
「だって、そこ別に良くない?
ってところ細かいんだもん」
「どういうところよ?」
「んとねぇ。さっき別れ話した店でもさ、
お通しで里芋の煮物とマカロニサラダが
1個の皿に入って出てきたのね?普通の
安い居酒屋だよ?ガード下の。
そのくらい男なら気にしなくても
良くない?お通しなんだし。ね?
それなのに、眉間にこうシワをキュッとして
『普通別の皿に分けるだろ』みたいなことを
ブツブツ言ってんの。美恵さん、
そういうのイヤじゃない?ね?」
「…そうねぇ」
少しだけ東京のお母さん・美恵の同意を得られた気もしたが、次の発言がまずかった。
「あと・・稼ぎも悪くはなかったけど、
良くもなかったしぃ」
「美佐代?」
「やっぱ男は一攫千金!ガッポガッポが
良くない?ね?杉さん?それなのにさ…」
「美佐代!」
美恵は「喝!」とも言わんばかりの声でぴしゃりと美佐代の言葉を止めた。
「冗談だって。ねぇ杉さん?ね?」
「冗談でもそう言うことは言わないの。
今の子はもう!」
美佐代はこの店に通うようになって5年の間ずっと変わらず、美恵からことあるごとに「稼ぎと恋愛は別」と言われてきた。それを言われる通りに「はい」と聞いてはいた美佐代だが、どこかで「違う」と思っている自分がいたのは事実だ。やっぱり稼ぎがないと生活はできない。稼ぎのない恋愛はそれが原因できっとどこかでつまずく。だから、回ってきた酔いも手伝って、スマホを見ながらも口ごたえしてしまう。
「でもさぁ・・」
「でもはいいの!携帯電話はいいから
私の話を聞きなさい!」
東京のお母さんは、すっかり「おでん」のことは忘れて美佐代を見据え、次のタバコに火を付けて続けた。
「いい?男女に別れがあるのは仕方ないの。
でもね?あんたは恋愛をどこかお金で
決めてるでしょう?恋愛は心でしょう?
お金は2人に必要なぶんだけあれば
十分じゃない。」
こうなると、美恵の一方的な説教になるのは心得ている。美佐代はもうこの話題を切りあげる方向に気持ちを傾け返事した。
「はーい」
「ハイは短くていいの!」
美佐代はすぐさま指摘された通りに短く言う。
「はいっ!」
「美佐代あんたはもう!
本当に分かってんの?」
「はい!分かりましたので、
ビールをもう1杯もらいます!」
「もう!」
不満そうな顔の美恵から逃げるように、美佐代は席を立ちサーバーへ手をかけた。ジョッキを少しだけ斜めに倒し、慣れた手つきでビールを注ぎこむ。最初はグラスを傾けて半分くらいの量までゆっくり入れる。次にジョッキを垂直にして、泡が立つように幾分乱暴に入れる。泡が飲み口からこぼれるギリギリまで届いたら一旦注ぐのを止めて、泡が少しずつ下がるのを待つ。そうして泡が指の太さ2本分くらいにまで落ち着いたら、最後はジョッキの隅からもう一度ゆっくりビールを入れてあげる。何年前かに美恵に教わった「美味いしい生ビールの入れ方」だ。美恵はオリジナルというが、きっとどこか理に適っているんだと思う。こうやっていれたビールは、サーバーを逆に押して泡を作る作業をせずとも、見た目のバランスはもちろん、そしてキリッと引き締まった味になる。
美佐代が「美味しい」ビールをジョッキに注ぎ終えた頃、美恵もタイミング良く温まった「おでん」の火を消した。「美恵のおでん」はどの具材もすっかりヒタヒタに浸ってまっ茶色。もはやどれも同じ味に感じてしまうかもしれないほど十分に味が染みこんでいる。先に香りだけ頂いた時点で「すごい!超染みこんで美味しそうじゃん!」と嬉しそうに話している美佐代に美恵は少し機嫌を取り戻して応えた。
「サービスしといたよ。
明日、また新しく作るから残りの
おでん全部入れといてあげたからね」
「あ・・でも、私ダイエット気にしてるから・・」
「そこは『はい!』でいいでしょう!」
「はいっ!」
「あんたはもう!」
皿に「大盛られ」たおでんから美佐代はまず厚揚げを口に運び、小さくもはっきりとした口調で「美味しい!」と呟いた。美恵もこれには少し気を良くして小さく頷き、小言も一旦落ち着いた。美佐代は「これ本当に美味しいよ」ともう1度言いながら美恵の方に視線をやる。と、その肩越しに「猫招き」っぽい置き物があるのを見つけた。
「あんな猫の置きものあったっけ?」
「あ、これ?みぃちゃん初めて見る?」
「うん、初めて」
「てことはあんた、
ホントにしばらく来てなかったのね」
そう言いながら美恵は「猫の置物」を手に取ってそのまま美佐代に渡した。招き猫っぽいそれは首に「福」ではなく「杉」と書かれた鈴をぶら下げている。キレイな茶色に染まった卵を口にしながら、手にした「猫」をじっくり見ている美佐代に美恵はその「猫招きもどき」についての説明を始めた。
「これ、杉並区のキャラクターで
『すぎなみみぃ』って言うんだって」
「へー。なんか微妙な顔してるね。」
「そうなのよ。でもお客さんで来た人が
杉並区のお店に配ってるんで、
ぜひ飾って下さい。って置いて行ったから、捨てるわけにも行かなくて置いてるのよ」
「へー。てか猫が抱いてるのが
小判じゃなくて木って変じゃない?ね?」
「それ、杉の木なんだって」
「杉?なんで?もしかして…
『杉並区だけに杉』ってこと?」
「そう。」
「へー。なんか変な猫。」
そういうと美佐代は「すぎなみみぃ」なる猫の置きものをじっくり品定め。「どこが微妙なんだろう。目かな?なんかやたらエロイ感じでニヤついてるし。口元?なんかやたらエロイ感じでゆがめてるし。顔全体?やたら顔でかくてエロい感じだし。てか分かった!全部だ!てかこんなのが杉並のキャラとか言われたらイヤなんですけど。」と厳しい査定を続けた。
美恵は「本当にそうよね」と言わんばかりに眉間にしわを寄せたまま聞いている。そしてひとしきり「すぎなみみぃ」へのダメ出しが出きった頃、今度はまったく違う話題に花が咲いた。
「てか杉並区って杉って、この猫が持ってる
杉の木の杉って意味で合ってんの?」
「美佐代、あんた知らないの?」
美恵はそんなことも知らないの?とばかりに、少しだけあきれた顔を浮かべる。
「え?知ってる方が珍しくない?」
全く知らないという顔をした美佐代に、美恵は鍋やフライパンをいじりながら「杉並区」の由来を聞かせた。(続)