「21時 杉並区永福町」

 

―「バスジャック。とても心配な事件ですね。

今はより確かな情報をつかむことが

何よりも大事だと思います」

 

ニュース番組のコメンテーターが穏やかな口調でありきたりのコメントを「置き」にいっている。その眉はありきたりとは言えないほどに太い。大筆で書いたようなその眉を「困りましたねぇ」と喋りださんばかりに八の字にゆがめながら、過剰に柔らかい口調で喋ることが「誰にでも言える普通のコメント」に温かみを、おてんこ盛りにしているのだろう。店のテレビで見ていた美恵はその「普通のコメント」に何度も「分かるわぁ」とでもいうように、気の毒そうにうなづいていた。今日は21時を過ぎても客はまだ常連の杉さん1人。いつも杉さんが頼むねぎ入り卵焼き―みえのねぎたま―を作りながらも商売繁盛にと飾ってある神棚横の14型テレビに目をやる余裕は十分ある。

 

 21時前だが杉さんはすでに目がトロントロンだ。1時間ほど前に、どうやら息子からかかってきた電話に「そんな話はどうでもいい。お前はバカたれだ」とピシャリ言って電話を切った後はしばらく同じセリフの繰り返し。「ダメだね。あいつは」と延々言いながら、次第に船をゆっくりゆっくり漕ぎだした。店の前、4車線道路の井の頭通りはまだまだ渋谷方面・吉祥寺方面どちらにもせわしなく車が行き来しているが、L字型の客席だけの小料理屋の中の景色だけはもう今日1日の終わり、24時前のような空気だ。

 杉さんはいつも店の一番奥に腰掛けて生ビールから始める。ジョッキで2杯飲んでから、キープしている日本酒を熱燗でやり、それが2杯目に入るとうつらうつらが始まる。美恵と杉さん―2人はもう40年を超える付き合いだが、70歳近くになった今まで杉さんの「飲み」のペースはほぼ変わらない。この後は卵焼きができあがった頃に一旦起こすと、杉さんはそれを食べながら、締めにもう1杯飲んでお愛想。いつもの流れだ。だが、今日はテレビが伝えるニュースがいつものような話題じゃないぶん美恵自身も少なからずいつもじゃない気がしている。「私も高知帰る時は高速バスを使う人間だからさ、こういうの気が気じゃないのよ」とこぼしてみた。が、眼鏡の奥の細い目を優しくじっと閉じている杉さんからの返事はないので自然、独り言になる。ニュースではアナウンサーが現状分かっているバスジャックの「情報」を口早に続けている。

 

「お伝えしていますように本日17時過ぎ、新宿発愛媛・松山行きの高速バスがバスジャックされました。車内には乗客32名と運転手2名が人質に取られている模様です。ここまでのバスの動き、改めて確認します。バスは東名高速へ向かう途中、甲州街道で犯人に乗っ取られたと見られ、本来向かうはずだった東名高速の入り口・東京インターとは反対になりますね、皇居方面へと走行しました。その後皇居よりおよそ1キロ手前、四ツ谷駅の交差点から左折。東京ドームなどがあります水道橋方面へと進路を変えました、そして、本郷の東大赤門前でおよそ7分停車した後、これといった動きは見せずに再び移動を開始。今度は首都高速に乗り、品川大井方面へと走行。現在警察がパトカー70台、警察官1000人態勢で緊急警備を敷き、バスを追っています。ご覧頂いているのはバスの行方を追っています台場テレビ報道局ヘリからの映像です。今後も状況に動きがあり次第、随時お伝え致します。」

 

そういうとテレビ画面は右下に「バスジャック映像の生中継」を残して野球中継に戻った。今日はクライマックスシリーズだから、久々に地上波中継をやっている。美恵自身どこの球団のファンということもないが、この永福町で店を始めた40年ほど前からいつでもこの時間のテレビには野球中継があった。それだけに、ここ何年かのテレビは寂しいが秋のテレビは野球中継が戻ってくるから少しホッとする。そろそろできあがりそうな「みえのねぎたま」に仕上げの焦げ目を付けながら8回表と終盤に差し掛かってきたゲームに目をやる。スコアは白熱して5対5と同点だ。残り2イニング。大詰めだ。卵焼きもできあがるし、杉さんも野球好きだ。ウツラウツラな船漕ぎから、いつもより少し早めに起こしてゲームを見せてあげようかと思った矢先、杉さんの居眠りは別の方法で突如破られることになった。

 

「美恵さん!ただいまー」

「あら!みぃちゃん。久しぶり。今帰り?」

「うん。美恵さん、

とりあえずビールちょうだい。

すんごい冷たいの。ね?」

「生でいいの?それともビン?」

「生で!」

 

美恵の言葉に‘みぃちゃん’は目線をスマホから離さないままの笑顔で答えた。美恵は生ビールのサーバーを扱いながら「みぃちゃん来たよ」と杉さんの肩にそっと手をやり起こす。杉さんはゆっくり目を開け、メガネのズレを戻した。その起き抜け、目覚めてわずか5秒だ。

「はい、杉さん!トリカン~!ね?」

杉さんは乾杯に付き合わされていた。

「お。珍しいね。美佐代ちゃん来てたん…」

と杉さんはなんとかゴニョゴニョ返す。

「今、来たところ。杉さん飲もう?ね?」と美佐代は杉さんの猪口に、もう一度ちょこんとグラスをあてて中ジョッキを自分の口に運んだ。

常連客には年配が多いこの店に、20代の彼女が通い始めてもう5年にはなるか。いつからか美恵は美佐代から「東京のお母さん」「あたしの東京の実家は永福町のこのお店」なんて呼ばれるほどの仲になった。実子のいない美恵にとって、それはどこかむず痒くも嬉しくなくはない言葉だった。「美恵」と「美佐代」、名前に同じ漢字が入っていることにも、なんとなくその縁を感じた。そして美佐代の飲みっぷりの良さ―店に来ると最初の1杯は、5分もしないうちに飲み干してしまいお代わりを頼む―も自分自身が上京後、銀座に務めていた20代当時のそれと似ている気がする。それにしても今日の飲みっぷりはいつもよりも見事だ。美佐代が口にもっていったビールは、一気にジョッキの半分もなくなっている。

「あんた今日、飲むの早いわね。」

美佐代は、答えるわけでもないままに美恵にも乾杯を求めてきた。美恵は緑茶の入った湯呑みで応えたが、美佐代のジョッキはもう空になっていた。

「お代わりでいい?」

「うん」

「本当に早いわね。どしたの?」

「達成感!達成感!」

「あら。いい話?」

美佐代はジョッキを受け取ると、美恵の言葉にはピースだけを返しながら、またもや杉さんに乾杯を求める。

「杉さんカンパイ~。てか杉さんもう日本酒?

早くない?まだ9時だよ」

「もう9時だよ」

起き抜け5分もしないうちに3度目の乾杯を求められた杉さんを美恵が助ける。

「そうよ。もう9時よ。杉さんはね?

朝6時から仕事してるんだから

もう9時でしょう?

アンタと違うの。ねぇ、杉さん?」

「私も7時には起きてるもん。」

「杉さんの場合は6時から仕事。

だからもっと早く起きてるの。

ねぇ、杉さん?」

代弁するかのような美恵の言葉に黙ってうなづく杉さんを見つつ美恵は続けた。

「それにみぃちゃん、そういう口ごたえは

いいの。若い女の子はこういう時は

黙って「はい」って言ってればいいの。

あんたはいっつも一言多いのよ」

「だってさ・・」

「だってさじゃないの。『はい!』でいいの!

分かった?」

美恵の少し強くなった口調を気にしてか、美佐代は口にしかけた言葉をビールで止めながら「はーい」と生返事した。そんな2人のやり取りを見ながら杉さんが眼鏡の奥、目尻を下げながらポツリ呟く。

「何があったか知らないけど『達成感』って

言うのはいいね。若者の達成感って言うのは

羨ましい。いいね。美恵さん、おかわり。

ボトルなくなっちゃったから

1本入れといて。で、美佐代ちゃんにも

1杯ついであげてよ」

「あ、杉さん、私まだビールだから

気にしないで?ね?」

杉さんの好意に美佐代は遠慮したつもりだったが、これが美恵にするとガッカリ以外何物でもない言葉だったからいけない。美恵の口調がつい荒くなる。

「だから、あんた!こういう時は黙って

「いただきます」って言いなさいもう!」

また美恵にやられた美佐代は「はーい」と生返事。もうすぐ飲み終わりそうなジョッキも手放さないまま美恵からのお猪口も受け取る。

「ごちそうになりまーす。」

杉さんは、美佐代のお猪口に入れたてのボトルから注ぎながら聞きなおした。

「で、どんな達成感だったの?」

「んとねー別れてきた。」

「ほぉ!いいね!」

杉さんが驚いた風に声を上げたと同時に、美恵が割って入り会話の主導権を取った。

「勇太君と?別れたの?」

「さようでございます~。」

「いつ?」

「ついさっき。有楽町の居酒屋で」

「美佐代あんたはもう・・・。」

美恵は手にしていた湯呑みを、コンと少し強い音を立てながらまな板の上に置いた。その様子を見て「これはマジな説教のパターン入っちゃった」と美佐代は覚悟する。美恵は真面目に話したい時だけは「みぃちゃん」ではなく「美佐代」と名前で呼ぶことから考えても間違いない。