5年に渡る単身赴任を終えて、本社勤務に戻って半年―。一伸のタイムスケジュールは「残業が当たり前」の毎日が続いている。普段なら帰りの新橋駅ホームに上がる時は、どんなに早くても21時を過ぎている。たまに20時を前に終わる時があったとしても、そんな時は残業仲間と3,4杯は飲んで帰るからやっぱりホームの階段をとぼとぼ上がり、電車になだれ込む時間は結局変わらない。ベタベタな「昭和型サラリーマンだ」と我ながら思う。しかし今日の一伸は違った。なんと!新橋駅の時計はまだ「19時」すら回っていないのに、改札を抜けすでに階段を駆け上がりホームで山手線を待っているのだ!間違いなく「今年新記録!」な早い帰宅だ。当然だ!今日は1年で1番家に早く「帰りたい」理由がある!

 

今日9月15日は、1人娘・明奈の「14回目の誕生日」だ。1人娘の誕生日に自分自身が都内にいる5年ぶりの誕生日だ。

 

娘の誕生日を5年ぶりに「その当日」に娘と祝えるという事実に、自分自身が思っていたよりも内心そわそわしていることに驚いた。最後に明奈の誕生日を一緒に祝ったのは小学校低学年の誕生日か。以降、単身赴任になってからは毎年別々。東京へはプレゼントを送り、自分自身は東京の方向へビールグラスを掲げて1人で乾杯して終わり‥というのが誕生日の過ごし方だった。でも半年前から本社勤務に戻った今年は違う。自宅から通勤の毎日となり、娘の誕生日を共に当日祝える権利も5年ぶりに手に入れた!娘が「誕生日くらい焼肉を食べまくりたい」なんて言ってるのを、ママづてに知ったからには頑張らないわけにはいかない。情報を知った先月から常にどこかで「焼き肉」が気にかかり、気づけばグルメサイトを検索。我がマンションのある葛西臨海公園駅から行ける範囲の「美味い」焼肉屋さんをどれだけ探し続けたことか。そして今日の仕事を速く上がるために、小さな罪も犯した。会社に小さな嘘をついたのだ。実際のところは、本当のことを伝えても大丈夫なくらいの信頼とキャリアを持ち合わせているとは自分自身でも思う。だが、1970年生まれの1993年入社という完全昭和型サラリーマン思考の人間だ。そして、名古屋支社から本社に復帰して半年。「地方に行って戻って来てからはあの人、のんびりになったよね」なんて周囲に思われる懸念事項はすべて消したい立場としては、どうにも「今日は娘の誕生日で、それを祝ってあげなくちゃなので」とは言えなかった。その代わりに、より「仕方ない感」を出すため「妻・明子の検査入院からの迎え」なんて言ってしまった。

 

とにもかくにも、いつもより2時間は早い帰宅を実現させた。有楽町駅では、ドアが閉まる直前に飛び乗ってきた「茶髪にショートな女の子」にぶつかられるなんてトラブルもあったがそれ以外は順調だ。帰りの電車、山手線の車窓からの景色がいつもより2時間分明るいだけでも口元がニヤついてしまう。一方で、徐々にT―スクエアのF1レースのBGMが脳内再生されてきた。そう!今日の!今の俺はF1レース並みのタイムアタックで葛西臨海公園を目指さなければならないのだ!そんな熱い思いと同時に、5年ぶりに娘の誕生日を祝える幸せに、ある言葉が頭を走った。

 

「最高すぎる瞬間を、

最高過ぎるビールで乾杯!」

 

これは一伸も好きなビールのCMのキャッチコピーだ。まさに今、葛西臨海公園の焼肉店で待っている「娘との乾杯」こそがその「最高すぎる瞬間」と言えるはず!もはや気が焦るばかりだ。乗っている山手線を、並走する京浜東北線が涼しげに追い越して行くことすらもどかしい。

 

―京浜東北で東京駅行けばよかったか。。

 何秒か損したな。ホームに着いたら、

 さっきよりもっと速く走ろう。

 

とはいえ、その道のりを急ぐことは、40代後半・慢性運動不足の中年男性である一伸にとっては中々に大変だ。まずは東京駅、山手線ホームから京葉線ホームまでのルート。魔のダウンストレートとでも言おうか、とにかく京葉線ホームは地下深い。どんなに急いでも他のホームから徒歩で5分はかかる。酔った帰り道なんかはホームへ潜るエスカレーターを歩く気力などあるわけもなく、軽々と10分はかかる‥。

 

そして今、東京駅にようやくたどり着いた「山手線」を降りた一伸は、自らの苗字「赤松」にちなんだ自分的ラッキーカラー「赤一色のネクタイ」を左右に揺れまくるほどの速度で走っているが、それでも7分はかかると思っている。このペースで行くと「19時25分発」の電車にギリギリ乗れるか乗れないかの瀬戸際だ。となると「葛西臨海公園駅」に着くのは19時40分頃か。店の予約は19時45分。駅から自転車を飛ばして、家族に合流できるのは10分遅れの19時55分頃か‥といった見立てだが、とにかく1分でも2分でも縮めたい!すれ違う人、一伸と同じ方向へ歩いている人、その1人1人をF⁻1マシンがシケインを華麗にクリアするようによけながら進んでいく。どんなに急いでも「ぶつかってクラッシュ」なんてことが起きれば大きなタイムロスになる。そんな事態は避けるべく、可能な限りスピードを出していく。中年太った体を右へ左へと俊敏に半身にしつつ1人、また1人とパス。ただ途中、対向車‥ではなくて、一伸とは反対から歩いて来た男―何かをブツブツと唱えながら競馬新聞に見入っていた「同世代」と見受けられる人物―とは、すれ違い様それぞれの右肩が軽くぶつかった。

「まずい!」と一瞬思ったが、そのブツブツ男はこちらを一瞥しただけで行ってしまった。本来ならばその一瞥に対して「悪いのはそっちだろ!そっちが新聞見ながら歩いてるからだろ!」くらいのことを言い返したいところだったが、今日の一伸にはそんな余裕はない。「ブツブツ男、よく見ると顔のブツブツも多かったからダブルの意味でブツブツ男、運がよかったな。不幸中の幸いだぞ?」と「念」でメッセージを送りながらも京葉線ホームへと急いだ。

 

地下深いホームにかけ降りきると、そこにはまだ25分発の赤ライン列車が動き出さずに待っていた。「間にあった!」とホッとはしたが、すでに座席は埋まっていた。それはまぁ仕方がない。扉近くのつり革前にポジションを決めてスマホを取りだし妻・明子に「40分くらいに駅に着きます。着いたらまた連絡します。お肉のチョイスは任せるんで明奈と選んでいて下さい」とメールを済ませた。

 

―ようやく一息だ。

 

ここから葛西臨海公園までの所要時間の「15分」は電車内で、どう慌てても意味がない。そう思って今度はプロ野球の途中経過をチェックすることにした。というのも今日は東京ドームで、今シーズンのペナントの行方を大きく左右するようなゲームが行われているのだ。ジャイアンツもタイガースも今年残り試合10試合を切った中でゲーム差なし。3位以下を完全に引き離した状態での一騎打ちの天王山的3連戦が始まった。その第1戦に一伸と同じ高校出身の「植村」が先発している。一伸自身はバスケ部だったし、年齢でいうと10以上も違う。だからもちろん面識があるわけじゃない。共通の知り合いもいないはずだ。それでも同窓生というだけで親近感を覚える。よくもあんな山梨の電車は単線、道路も1車線、この東京都とは大違いな田舎の街から毎年15勝も上げるようなエースが出たもんだ。彼がジェッツに入団してからは、ずっとジェッツを贔屓に応援している。ただ、今年の植村はイマイチ安定感に欠けている。今年は勝利数こそ12勝を数えているが防御率が3点台と彼らしくない。例年なら悪くても2.5点台を超えることはなかった。だが、スマホで見た「途中経過」によると今日は頑張っているようだ。3回裏が終わったところで0―0だ。

 

―頑張れ植村!今日は「娘との焼肉」があるから、お前の頑張りをこの後はマメにチェックできないが、夜中にニュース番組でチェックしてやるから頑張れ!

 

我ながら「よく分からない上から目線」で上村投手に「念」を送り、スマホを閉じた。周りを見渡してみると電車は…まだ葛西臨海公園駅には着いていなかった。

どころか発車すらしていなかった。

 

「もどかしい。早く発車してくれよ。

  そして葛西臨海公園までの他の駅、全部通過してくれたらいいのに!」(続)