シベリアポーランド孤児を救った日本(2) | ほくとの気ままなブログ

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世界が愛した日本から

慈愛のキャッチボール

ポーランドの子どもたちを救った日本


さてこの話には続きがあり、

こうして祖国に戻った孤児たちの中に、イエジ・ストシャウコフスキ少年がいました。彼がが17歳になった1928年、シベリア孤児の組織「極東青年会」を組織し、自ら会長となりました。「極東青年会」はポーランドと日本の親睦を主な目的とし、組織の活動を通して日本文化のすばらしさをポーランドに紹介していきました。時がたち、ドイツのポーランド進攻が始まるとこの青年団はイエジキ部隊として多くの同胞が集まりレジスタンス活動を行いました。イエジキ部隊には孤児院という格好の隠れ蓑がありましたが、そこにナチスドイツの強制捜査の手が入ります。しかし、急報を受けて駆けつけた日本大使館の書記官は、「ここは日本帝国大使館が保護している孤児院である。同盟国のドイツ軍といえども勝手な捜査は認められない」として突っぱね、イエジキ部隊長に向かって「このドイツ人たちに日本の歌を聞かせてやってくれないか」と頼みました。するとみな日本語で「君が代」「愛国行進曲」を合唱してみせたのでした。あっけにとられたドイツ兵たちは、「大変失礼しました・・・」と言って直ちに引き揚げました。まったく奇跡のような歴史のつながりです。
このイエジ部隊の徹底の抵抗も長くは続かずまた、イエジさん自身も再度シベア送りとなってしまいます。しかしまた過酷なシベリア生活を生き抜き、76歳で念願の訪日を果たしました。訪日した彼はかつて過ごした宿舎の後やゆかりの地を訪れ、救出当時の関係者などと再会し積もる話をしたそうです。そのうちに、感極まって思い出したように「もしもしかめよ かめさんよ 世界のうちで おまえほど・・・」昔覚えて日本の歌を歌い始めました。日本語で最後まで歌いきったイエジさんは、感情のたぶったまま「私はシベリアの孤児として、61年ぶりに皆様にお会いできたことを大変うれしく思います。私の仲間の誰もが、ここでこうして感謝の言葉を述べたかったにちがいありませんん。私は今ここで、かつての仲間の分も一緒にお礼の言葉をさしていただきます。本当にありがとうございました」と大粒の涙を拭こうともせずに感謝の言葉を伝えていたそうです。
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左がイエジさん(お借りしました)


また、日本で救済された孤児のなかには、ドイツ軍の占領かでユダヤ系ポーランド人の男の子をかくまって育て、後日イスラエル政府から「諸国民の中の正義の人賞(ヤゾ・バシエム賞)を授与された孤児もいたそうです。


さらにこの連鎖は数十年の時を超えても続き、平成7年の阪神大震災のとき、真っ先に被災者の救済に飛んできてくれたのは、ポーランドの人たちでした。そしてポーランドの人たちは、その大震災のあと、孤児となった子供たちをポーランドのワルシャワに招いて激励会を開いてくれたのです。

それを企画をしたのは、日本のポーランド大使館に勤務していたフィリペック博士。博士は、かつて日本がシベリアのポーランド人孤児たちをたくさん救ってくれたことを、知っていました。
彼が小さかった頃におばあさんから、日本人がポーランド人捕虜(日露戦争時ポーランドはロシアの支配下にあった)を親切に扱ったことや、大勢のポーランド孤児をシベリアから救出したことを語って聞かせていたようです。これが機縁となって、博士は日本語を学び(東京工業大学にも留学経験があったようです)、両国の友好のために働こうと決意したといいます。
そして、「いつかポーランド人として、この恩返しをしたい」と心に念じていたのだそうです。こうしてポーランドと日本の間にも、慈愛のキャッチボールが行なわれました。

ポーランドでの歓待の最終日、日本の震災孤児が帰国するお別れの会に、ポーランドの、かつて孤児だった4人の老婦人が訪れました。この老婦人たちは、日本の被災孤児たちに、自分たちが日本に親切にしてもらったことを切々と語り、涙を流しながら、孤児一人一人に薔薇の花を手渡し、「これで恩返しができた」と語ったそうです。 


そして平成14年には天皇・皇后両陛下がポーランドに訪れ、シベリア孤児にお会いになられています。孤児の生存者のひとり、アントニーナ・リロさんは既に85歳になっており、自分ひとりでは、とても孤児たち全員の感謝の思いを伝えきれないと恐縮しつつも「それが私に出来る唯一のことだから」と天皇皇后両陛下に謁見しました。リロさんは平成18年に「日本は天国のようなところだった」という言葉を遺して90歳の生涯を閉じています。

現在では生存しているポーランドの孤児の方はおりませんが、このシベリア孤児救済の話は、当初「これは大変だ。早くしなければ命が危ない、ポーランドの子供を救おう」といった小さな善意の心から始まり、日本の国中から温かい声援や支援の輪が広がり、それを受けた孤児たちが 「恩と感謝の心」を生涯忘れることなく過ごしている。 それがきっかけとなって現在までポーランドの人達の日本への温かい善意が続けられているのだと思います。

 ポーランドは、過去いく度かの大きな苦難の歴史が続き、それを見事に克服して独自の文化を形成してこられた人達の国です。 人々から受けた恩も決して忘れることがなく、ポーランド魂といわれる強い気質で苦難にチャレンジする国民性、なんとすばらしい国民性ではないでしょうか。


相手国の方が知っていて日本の国民が知らなかったり、なかなかこのような話は知らないことが多いですね。教科書にも載っていないし、試験に必要がないからなのか?(苦笑)
 日本の国は今でも、多分に世界貢献しているでしょう。報道されていないまた教えられていない日本また日本人の活躍もあるでしょう。そして逆に日本人、日本の国が助けられたことも各国の中でもあるのではないかと思います。

先日あるTV番組の再放送がありました。番組の内容は中国で記憶をなくした日本兵を中国の農家の家族が親子孫3代半世紀にわたって家族として養い、祖国日本に帰国させた物語でした。
この内容が記事になっているサイトをみつけました。詳しくはこちらをご覧ください。Http://www.peoplechina.com.cn/maindoc/html/zhuanwen/200504/zhuanwen24.htm
他人そして戦争で戦った日本兵を、貧しい生活のなかからその日本兵のために病院代も捻出。日本兵をかくまっているからといって、子供は教師になれなかったりと苦難のなかでも、その日本人をみすてることなく怨むのでもなく、人間として当たり前のように接し苦労の末帰国させたのです。並大抵なことではできないでしょう。


人間は、仏の顔もあるかもしれませんが時として鬼にもなることがあるでしょう。ですから心の平和をいかに保つことが重要になってくるのではないでしょうか。日本は世界の国々から割合と高感度があると言われているのには、このような先人たちの心温まる美談の積み重ねがあってだからこそかもしれません。そのことに感謝しつつも、日本人としてのほこり、そして周りに気遣う和の心、人々を敬い感謝する心など、現代に生きる私たちのなかでは失いかけつつあるような気がしてなりません。そして人道的な見地にたち気骨のある人間が少なくなってしまっているような気もします(もちろん私も含め)・・。

真実を見つめ反省すべき点は反省し良い点を学び、忘れかけてしまっている大切な心を取り戻し、平和の為に未来に向かう気持ちをもたなければならないのではないかと思います。

本来であれば、国と国人と人がこのような慈愛のキャッチボールを行う限り争いなどは起こらない気もするのですが。心と体のバランスが崩れると病気になってしまうような人間の体と一緒で、キャッチボールのバランスが崩れてしまうと、国内での暴動や国家間での争いが起こってしまうのかもしれませんね。どこの国でも何もしらない子供たちが、最終的には大人の起こしたことで犠牲になるのですから。

けっして不幸な未来を作らないためにも、慈愛のキャッチボールが続けられればと思います。

四條たか子さんが書かれた、世界が愛した日本には今回紹介したような日本人が知らなかった出来事が紹介されています。

機会があれば、読んでみるのも良いかと・・・・。

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