●交通事故など起きにくい場所に住みたい。

 

4月も半ばになってきました。

 

■この時期、新しい会社に入社して近い場所に引っ越しを決意する。

合格した高校・大学に通い始め、引っ越しを決意する。

■新しい部署、新しい場所・左遷・栄転赴任/栄転異動で引っ越し。

 

など、引っ越し先が安全な所か気になるでしょう。

 

また、

子供が生まれたとか、

子供が幼稚園や小学校に通うようになった。

 

という場合、安全な場所と危険な場所を知りたい。

 

また、

■普段の散歩コースを安全な道を通りたい。

■普段の買い物で安全な道を通りたい。

 

という方もいらっしゃるでしょう。

 

そういう場合、

私に占いの電話相談で聞いてこられる方がいらっしゃいます。

 

例えば、こんな相談です。

今住んでいる場所は、交通事故とかで危険な場所ですか? とか、

■引っ越したいのですが、A市〇町の家とB市〇町の家なら、

 どちらが危ない地域ですか?

■子供が来月から小学校です。安全な道かどうかを占ってください。

 

 

 

そこで問題です。

 

相談者の方から、今住んでいる場所やこれから住む場所が、安全か?

交通事故など起きやすいかどうか占って欲しいと相談された場合、

貴方ならどうしますか?

 

少し考えてから、先をお読みください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

相談者の方から、今住んでいる場所やこれから住む場所が、安全か?

交通事故など起きやすいかどうか占って欲しいと相談された場合、

貴方ならどうしますか?

 

結論から言うと、ぶちゃけ、

 

そんなの占いで導き出すのは、難しい問題です。

 

 

 

 

しかし、お金をもらっている以上、無下には出来ません。

 

そこで私の場合、

①     ■まず、占って欲しい住所をお聞きします。もしくは近くの場所

 

②     ■次に、東京都の場合、警視庁のホームページを開きます。

 東京都以外の県の場合は、(県名、交通事故発生マップ)で調べてみください。

  https://www2.wagmap.jp/jikomap/Portal

 

③     ■すると、下のホームページが現れますので、

 

   

   死亡事故発生地点マップをクリックします。

 

   

   

④     ■すると、下のホームページが現れますので、

   

 

  一応読んでから、ページの最後まで行って、同意する。をクリックします。

 

   

 

⑤     ■すると、下のホームページが現れますので、

 

   

   例えば、調べたい場所を検索の所に記入します。

   私の場合、昔住んでいた付近である田無を検索に入れてみます。

 

   

 

⑥     ■まず出るのは、下の様に去年の死亡事故状況です。

  地図のど真ん中に黄色で〇に×が入った印が出ます。

  その場所で誰かが交通事故で死んでいるという場所です。

 

  

⑦     ■右の2024年にもチェックを全部入れます。

   その結果が下です。

  

私の場合、いつも5年分全てにチェックを入れてみます。するとこうなります。

 

   

これを見て、貴方の家から100m離れた場所で3年前に死亡事故が起きていますよ。とかを教える訳です。

 

⑧     ■次に死亡事故だけじゃなく、危険な地域を見てみます。

   それには、下の事故状況別マップの所をクリックします。

 

   

   すると、下のホームページが現れます。

   

⑨     ■検索の所に、郵便番号か住所をいれます。

  例えば、田無と入れれば、

  

下のホームページが現れます。

 

 

■赤みがかった場所は、とても危険

■黄色がかった場所は、次に危険

■緑の部分は注意が必要な地域

■白い地域は安全と思える地域

となります。

 

以上の結果を踏まえて、

電話相談者の方に、

危険か安全か、過去に死亡事故が起きているかなどをお教えするわけです。

 

END

●ある若者の死ぬ予感。

この話は霊能者の宜保愛子さんが講演会でお話しされたものです。





1963年8月初旬の事です。

私の家(宜保愛子さんの家)のベルが鳴りました。

ドアを開けてみると、そこに一人の青年が玄関先に立っていたんです。

相談者かと思い尋ねると、彼は、

自分でも、何が何だか分からないのですが、


 この家の前を通ったら、妙に懐かしくなり、声をかけたくなってしまいました。」

と言うのです。

何かに導かれている感じだったので、とりあえず上がってもらいました。

彼を仮に近藤さんとしておきましょう。

近藤君は、まだ大学生で、私の家から2キロほどの所に住んでいました。

お父さんは、弁護士をしていると言います。


お茶をあげると、

お礼に何かさせてください。」と言うと、

ちょうど庭先にあった息子の三輪車を見て、


「あ、ちょうどいい、三輪車を磨かせてください。」と言うのです。

 

私が「そんなに汚いですか?」と聞くと、彼は、

「いいえ、何かさせてもらうだけでも、気分が良くなるのです。」と言うので、

ぼろ布と乾いた雑巾と食器用の洗剤と機械油を渡しました。

彼は、丹念に息子の自転車を磨き上げると、満足したように帰っていきました。





ところが、数日後、また彼が家にやって来て、

今度は、庭の草むしりをしたい。」と言うのです。

今から思うと、私もよく見ず知らずの男を家にあげたな。と思いますが、

ちょっと変わった行動は気になりますが、それを除けば、


近藤君は実に性格の良い青年だったのです。



こうして、彼は休日や暇な時は、私の家に通って来るようになったのです。

「あなた、休みというと私の家に来ているけど、他にする事ないの?
 彼女はいないの?」と聞くと、


「この頃、どうしてか分からないけど落ち着かないのです。
 大声を出したくなるくらい落ち着かないのです。
 何かにせっつかれている様な気がするんです。

 でも、ここに来ると、心が和むんです。ホットします。」

『「お前はまだか」という声が聞こえる時もあり、
 親に相談しても、ノイローゼか精神病扱いで分かってくれないのです。』

そう言って、私の家に来ては、三輪車を磨いてくれたり、
庭の草を取ってくれたり、家の掃除を手伝ってくれたりするのです。

後になって分かるのですが、

近藤君に一種の予知能力が働いて、
自分に何かが起きる事を察知していて、
そのあせりと不安から私の家に通って来たのでしょう。

近藤君を見ていると、
何かに追われている様な焦燥感(しょうそうかん)と不安で、
居ても立っても居られないという感じでした。

近藤君がうちに通い始めてから2か月が経った1963年10月9日の事です。

私は家の中から庭で草むしりをしている近藤君を見た時でした。

なんと、彼の顔が真っ赤に見えたのです。

それはまるで、火が燃えているかの様でした。

「近藤君、どうしたの?
 体の具合でも悪いの?」と声をかけると、

近藤君は、何も答えません。

表情はどんよりとしていて、まったく別の事を考えているようでした。

何だか様子がおかしいので、私は庭に降りて行き、近藤君に声をかけました。


「近藤君?」

すると、近藤君は、
さみしい。
と、本当にしみじみとさみしそうに言うのです。

彼の魂は、

自分の身の上に何か重大な事が起きる事を察知していたのだと思います。
しかし、それが何であるか分からない。
それが不安
で私の所に来ていたのでしょう。

私も近藤君の身の上に、何か重大な事が起きる。
何か大きな事故が起きる。と感じていました。

それが起きる1週間前の事です。

いつもの様に近藤君はうちに来て、
無心のままにうちの子供と遊んでいました。


でも何をするにも一心不乱で、私が何か話しかけても反応が遅く、
一瞬何を言われたのか分からない
という感じでした。

そこで近藤君の顔を見ると、ハッとしました。

彼の白目の所が、ガサガサになっているのです。

死相が現れているのです。

「ここに来ると落ち着くのです。」と言う近藤君。
きっと、彼の魂は死の予感を感じていたに違いありません。


そして、とうとうその時が来る2日前の事です。

この日、近藤君は何をするでもなく、
うちの庭をぶらぶらしていました。

そして私が台所にいると、入って来て、
何も言わずに、コップを差し出すのです。
私が「お水?」と聞くと、
水を入れたコップを受け取り、庭に戻って行きました。

「何をするのだろう?」と、気になった私は近藤君の後をついていってみると、

先に磨いた三輪車のサドルの上に、水の入ったコップを置き、
その隣に庭で取った雑草を空き缶に入れて飾るのです。

それはまるで、小さな仏壇の様にも見えました
なぜ、そんな事をしているのでしょうか?

自分への手向けのつもりなのでしょうか?

私はその様子を見て、事件が起きるのは近いと予感しました。


なので、彼に言いました。


「近いうちに、何か起きるから、
 あまり遠くに行ってはダメよ。
 怪我をするといけないから、家と学校を往復するだけにしなさいね。」

私が近藤君を見たのは、これが最後になりました。


 

 

 















1963年(昭和38年)11月9日夜

神奈川県横浜市鶴見区で列車脱線多重衝突事故が発生した。

いわゆるこれが、鶴見事故と言われる事件です。

死者161人、重軽傷者120人にのぼる人的被害を出す大惨事でした。

その被害者の中に、近藤君はいたのでした。

「やっぱり起こったか。これだったのか!


近藤君が感じていた不安や焦燥感、何かに追われているという感じは、
もうすぐ自分が死ぬという事をボンヤリと察知しているところからきたものだったのです。

私は近藤君の家に行って、お焼香をすませて帰宅しました。

その日の夜。

 


眠っていると、2時間くらいで目が覚めてしまいました。


すると、枕元に近藤君が立っているのです。


ニコニコ笑っています。
そんな笑顔は事故が起きる1か月前からは見ていませんでした。


「ぼくは、どうしていいか分からなかったんだ。
 でも、貴方の家に行って何かしている時だけ落ち着く事が出来ました。
 どうもありがとう。」

そう言って近藤君は消えたのでした。

END
 

●赤字でも、お客が喜ぶなら、それが私の宝です。

 

1936年、

ペンシルベニア州ピッツバーグの労働者階級の家庭に一人の男の子が生まれました。

名前をジェームズと言います。

 

父親は炭鉱夫や製鉄所労働者として働き、

家族はカトリックの信仰を持つ堅実な家庭でした。

幼少期から決して裕福ではない環境で育ちました。

 

ジェームズは医者になる夢を抱いていた。

しかし高校時代の成績は平凡で、周囲からはまず地域の短期大学に進むよう勧められました。

結局サンディエゴの短期大学(コミュニティカレッジ)に進学した彼は、

学費を稼ぐために小売店でアルバイトを始めます。

 

サンディエゴにあったディスカウントストア「FedMart」で

雑用係として働き始めました。

 

仕事は、グロサリーバッガー(袋詰め)としての入社でした。

レジ周りでの接客・手早い袋詰めで顧客対するのです。

 

アルバイトなので、色々な仕事をやらされました。

マットレスの荷下ろしや大型商品の運搬などの重い荷物を運ぶ肉体労働。

 

働くうちに小売業の面白さに目覚め彼はそのまま販売の道にのめり込んでいきます。

 

実は当時、FedMartの創業者ソル・プライス氏は、小売業の先駆者として知られる人物でした。

ジェームスは、たまたまこのディスカウントストアをアルバイト先に選んだのですが、それはとても幸運な事でした。

 

FedMartが南部のダラスで新店舗を開設しようとした際です。

店にトイレが1つしかないことについて、「白人用と黒人用の2つに分けるべきだ」

という業者からの提案がありました。当時の1960年代初頭は、まだまだ人種差別が根強く残っていた南部です。

しかし、このときプライス氏は毅然として「そんな必要はない」と拒絶しました。

 

人種による分け隔てをしないというこの姿勢は、若いジェームスにとって衝撃であり、ビジネスにおいて、誠実さとお客への公平さを貫く事の大切さを肌で感じる学びとなりました。

他にも、プライス氏から仕事を通して、

 

■法律を遵守すること

顧客に対して正直であること

従業員を大切にすること

在庫を無駄に抱えないこと

といった小売経営の原則を叩き込まれました。

 

ジェームスは社内で昇進を重ね、最終的には商品仕入れと店舗運営を統括する副社長にまで昇りつめていました。

 

ところが、ここで大きな転機が訪れます。

 

突然ジェームスが働いていたFedMartが外国資本(ドイツの小売企業)に買収されてしまったのです。

 

FedMartの経営者でありジェームスに仕事のいろはを教えてくれた恩師・ソル・プライス氏は首になり退社しました。

 

新しいドイツの経営のもとで古き良きFedMartの企業文化は揺らぎ始めます。

 

師を失ったジェームスはひとつの決断を迫られました。

 

安定した副社長の地位に留まるか、それとも辞めて新たな挑戦に踏み出すかです。

 

当時ジャームスは40代半ばで結婚して3人の子供がいました。

 

普通なら副社長までになった安定した地位を捨てるなんて事はしないでしょう。

下手したら家族5人が路頭に迷ってしまいかねません。

 

しかし、ジャームスは会社を辞めました。

 

会社を辞めたジェームスは、恩師プライス氏が新たに立ち上げていた会員制のお店「プライス・クラブ(Price Club)」に合流します。

しかし、新事業には困難がつきものです。事業者会員を対象にした当初のモデルは思ったほど成長せず、すぐに一般顧客を対象にする必要に迫られました。

 

この挑戦から得た学びは大きなものでした。

 

■ビジネスは市場のニーズに応じて柔軟に変えていく必要があるという事。

一般消費者にも会員資格を拡大することで事業の軌道に乗せられる。

■商品構成は低価格と高品質が最も大事な事。

 

それと同時に、上の事さえ実行していれば、

自分は一から事業を立ち上げられる」という自信にもなったのでした。

 

ジェームスは恩師の会社でも活躍し、「プライス・クラブ(Price Club)」でも副社長になっていました。

 

そんなある日、シアトル出身の弁護士ブロットマン氏から突然の電話を受けました。

 

ブロットマン氏はフランスで倉庫型店舗の成功例を目にし、このビジネスに可能性を感じてジェームスに協業を持ちかけてきたのです。

 

ジェームスは、今までの経験からオペレーション(現場運営)の専門家でした。

逆にブロットマン氏は現場経験は無いが、資金力・地元の小売ネットワーク・経営センス(弁護士で起業家)を持ち、ジェームスの現場運営力と補完関係を築ける人物でした。

 

ジェームスは、自分の理想の店を作りたい。という気持ちが起きます。

 

こうして、またしても安定した副社長の地位を捨てました

 

こうしてシアトルの倉庫を借り、最初の店が1983年9月にオープンしました。

そう、私が学生時代に居たシアトルの地に。

 

しかし、その門出は必ずしも順調ではありませんでした。

開店直後の顧客の反応は芳しくなく、人出はさっぱりでした。

 

それでも彼らは諦めず、地道に会員を増やし、サービスを改善させ、

1年後にはワシントン州内に次々と新店舗を開くまでに成長したのです。

 

この時、ジェームスは、

良いものを安く提供すれば必ずお客様は戻ってくる。

という信念が確信へと変わったのです。

 

それと同時に彼の理想の店を完成させました。

それは、

■飾りなど無い倉庫のような簡素な店舗に徹し、

■過剰なサービスや広告を一切省くことで経費を削減し、

■節約出来たその分価格を下げる。

■会員から年会費を徴収する代わりに、商品マージンはわずか14%に制限する。

通常の小売店が何十%もの利幅を取るところを、極限まで薄利にする戦略です。

 

この徹底した低価格路線により、徐々に口コミで評判が広がり、固定客が増えていきました。

 

成功して10年が経過した1993年、ジェームスはもう一つの大きな決断をします。

 

それは、当時やや苦戦していた恩師の会社プライスとの合弁です。

合併後の新会社は「プライスコストコ」と称し、両社の会員は相互に店舗を利用できるようになりました。

 

ちなみに、日本語でこそコストコという名称ですが、本家本元の米国では

COSTCOと綴りコスコと読みます。

 

 

10万種類以上の製品を販売するウォルマートとは違って、

コストコの製品数はわずか4000個以内です。

どんな商品にも手をだすのではなく、

お客に売る商品を厳選に選び、

販売製品一つ一つに「信頼」をかけ、不必要なマーケティングはしない。

年会費が収益の半分以上を占めるので、

安く売るからといって安物は売らない

という原則が守られています。

コストコでは、新しいサービスや商品を検討する前に必ず検討する事がある。

それは、その商品を売る事で、顧客の節約につながるのかという事。

 

ちなみに、コストコには、大きく2つ個人会員制がある。

■1つは、年会費5280円のゴールドスター会員

基本個人会員。家族カード1枚無料。

■もう1つは、年会費¥10,560円のエグゼクティブ会員

年間購入額の2%リワード(上限11万円)。

つまり5万円の買い物をすれば 1,000円分買い物無料権がもらえる。

だから、一緒に連れて行ったお友達の会計を含めて、年間25万円以上買う方は、

エグゼクティブ会員になった方が得になるという事になります。

 

 

■ただ、貴方が会員ではなくても、もし貴方の友人が会員なら、

会員1名につき大人(18歳以上)2名まで同伴入店可。

子ども(18歳未満)は人数制限なし。 会員が同行し会員カードで入場します。

会計は会員が行う必要あり。

 

コストコは、成長に成長を続け、世界の小売業界で7番目の売上高を誇ると報じられているコストコは、今や世界で最も注目されている企業である。

 

コストコではとにかく徹底した節約が行われている。

 

宣伝広告や店内の装飾などに経費を使わない。

買い物袋や包装紙などもありません。顧客は空になった商品のダンボール箱に買い物を入れて車まで運ぶのです。

 

しかしそんな節約方針をとっていても、人件費だけは節約をしない。

コストコ社員の平均給与の高さは全米小売業界では他社を抜いて第1位

給与だけではない、健康保険の内容も全米1位

だから、米国小売・卸売業の従業員離職率は約26.7%で従業員の確保や募集で苦しんでいるのに、コストコの従業員離職率はわずか8%なのである。

コストコでは、節約した分が顧客と従業員への利益として還元されているのである。

 

それに対して、労働者階級出身の最高経営責任者ジェームス・シネガルの年収は驚くほど低く抑えている。「社員の平均給料よりもとらせてもらっています。それだけあれば十分なのです。」と彼は言う。

私への給料よりもお客に安く良い物を買ってもらうために。

社長室も小さくて質素である。

 

時間を作っては、店内をみてまわり、誰とでも親しく接している。

最高経営責任者であることを偉ぶらない。

自然体の彼は、フロアで働く気のいい高齢の社員と間違えられることも度々あるという。客のカートの取り出しを手伝うなど、一般社員と同じ仕事を率先して行っている。客はまさか目の前にいるのがCEO(社長)だとは思ってもいないだろう。

コストコで買い物をする家族と店員

 

 

1999年、コストコは日本に進出する。(九州の博多)

進出にあたり、多くの小売業者に一緒にやれないかと声をかけたが、

■商品マージンはわずか14%に制限

■宣伝広告や店内の装飾などに経費を使わない。

などという経営方針に賛成してくれるような日本の会社は無かった。

 

しかたなく、ジェームス・シネガルは全てのリスクを背負って日本進出を実行した。

コストコは、世界中で事業展開をしている中、長男のマイク・シネガル氏を立ち上げ時から日本に送り込んでいる。日本市場への大きな期待感が氏の胸の内に秘められているのである。

 

 

 

 

 

最後に、

コストコと言えば、ホットドックであろう。

なにしろ、大きくて太いソーセージがとても美味しいのだ。

コストコのホットドッグ

実は、私もコストコに行く時があれば、必ずホットドックを買う。絶対。

このホットドックを食べる為だけにコストコに行きたいくらいである。

 

なにしろ、この巨大なホットドックは、

■中に入っている巨大ソーセージの長さが20cmを超える。太いし。

マスタードとケチャップかけ放題。

ピクルスと玉ねぎの細切れ入れ放題。私は玉ねぎを5人分は入れる。

飲み物が飲み放題。なのである。

ちなみに飲み物は、

▲炭酸系:ペプシコーラ、ペプシゼロ、マウンテンデュー。

▲果汁系:なっちゃんオレンジ(オレンジジュース)。

▲お茶系:烏龍茶

それでもって全部で、たった180円なのだ。

アメリカでもこのホットドックの人気はすさまじく、

コストコはMLB(メジャーリーグベースボール)全球場の合計販売数の約10倍

ものホットドッグを販売しているのだ。

 

 

以前、材料費が値上がり、1ドル50セントでは提供出来ないとなった事があった。

しかし、ジェームス・シネガル氏はその業者を切り、

自分の会社で作る事に切り替えたのである。

 

しかし、それでも値上げの波には限界を迎え、

当時ジェームス・シネガル氏の後を継いだCEOがホットドックの値上げを検討した。

それを聞いたジェームス・シネガル氏は、もしホットドックを値上げするなら、お前を首にすると言ったのである。

ジェームス・シネガル氏はホットドックの為だけに専用の工場を立ち上げて、

1ドル50セントという値段を守ったのだった。

 

ホットドッグは赤字でも、お客が喜ぶなら、それが私の宝です。

 

コストコは1985年以来、今でも、

ドリンク付きのホットドッグセットを1.50ドル(約180円)で販売し続けている。

 

END

 

 

 

参考:GOETHE コストコ創業者を直撃。売上高世界7位への秘密は徹底した節約!? | GOETHE