2011年3月11日は新千歳空港にいた | マスコミに取材される方法

マスコミに取材される方法

新聞社とTV局に21年。PR会社に1年。その経験でプレスリリースの発信とマスコミ登場をサポートします。



記者生活の終わりに

私は記者生活に終わりを告げるため、
2010年12月、北海道新聞の運動部長と向き合っていました。

部長は優しい人でした。
私が会社を辞めると告げたら、
「どうしてなんだ?」と柔らかい声で聞いてくれました。

私は正直に言いました。
・書きたいテーマがあります
・世界の先住民族の長老に同じ質問をします
・この地球はどうなりますか?と
・それは北海道新聞の記者では果たせません

部長は言いました。
「荒川、その本は売れないぞ」

部長は私が新人時代の小樽支社でも上司でした。
私の理解者だと思っています。

「売れない」というのは「その後でどうする?」という心配でした。

いつも思うのですが、人生は一度きりです。
気付いた人間がやるべきです。

部長の心配を押し切って辞意を告げました。
それから半年後に会社を辞めました。
この間に東日本大震災が起きたのです。

福島空港行きを待った

辞意を告げてから3カ月後。
私は運動部というスポーツ面担当の記者で、
アイスホッケーも任されていました。

2011年3月11日午後2時46分。
東日本大震災の発生時。

私は新千歳空港の出発ロビーで「福島空港行き」の便を待っていました。
数十分後に離陸するはずでした。

アイスホッケー・アジアリーグの取材のためです。
東北と韓国のチームが争うはずの決勝戦でした。
なぜ、北海道新聞が取材するのか、と聞かれるかもしれません。

アイスホッケー選手の多くが北海道出身です。
北海道新聞にとっては、どこのチームなのかより、
北海道出身選手の活躍を追うのが当然ですから。

新千歳空港が激しく大きく揺れました。
耐震性が優れているはずの空港。
かなりひどいと感じました。

過去に大地震を経験しました。
2003年9月26日。
十勝沖地震です。
私は赴任したばかりの北海道広尾町で大地震に遭いました。
マグニチュード8.0。
寝ていた支局の2階から転げ落ちるように逃げました。
その経験から「とてつもなく大きい」と感じたのです。

福島に行けるように願いましたが、
新千歳空港のアナウンスは
「事態を把握中」とだけ。
福島空港が甚大な被害を受けたことも、
その時は分からなかったのですが、
私は飛行機が飛ばないと思いました。

取材に行けないかもしれない。

そう、部長に伝えました。
「このまま待つかどうか」
全体が見えてない中で公衆電話から話しました。

部長は即断しました。
「取材そのものを中止する。会社に戻れ」

前に進む覚悟で

あの時のことを今でも思い出します。
もし、福島空港に向けてフライトしていたら。
もし、福島空港に着陸後だったら。

犠牲になった人に昨日、黙とうしました。
無念だったでしょう。

生かされている私は、
前に進まなければと思います。

18,000人以上が犠牲、行方不明になりました。
残された私は前に進むことでしか慰霊できません。


昨日の新聞で気になったことがありました。
東日本大震災の関連記事がたくさんあるのに、
地震発生時刻が大きく書いていないのです。
私は物覚えが悪いので、インターネットで検索しました。
そして会議中、発生時刻に黙祷しました。

もし、新聞各社が発生時刻を枠で囲って
1面の上半分のどこかに明記していたら、

読者はその瞬間を迎えた時、
心を同じく慰霊できるのに、と。

新聞は「あの日を忘れない」と紙面展開しました。
確かに大地震の被害は瞬間だけではありません。
しかし、
「あの瞬間を(から)忘れない」と、強く伝えることで、
さらに国民の心が一つになると思うのです。

言葉遣いの話ではなく、
新聞が何を目指して紙面を使っているのか・・・。
別の見方もあると思いますが。