最後のお見送りには、様々な宗派のしきたりで作法が少し変わります。
大体は仏教の方が多いのでお位牌となりますが、とある宗派ではご法名と呼んで下さい。と、軽くご説教を承った事がありました。
仰るには、お名前があるのにお位牌というのはおかしくありませんか?との事でした。
そう仰るのならば、その方の時はご法名と言うようにしょうと思うのです。
大抵の方は仏教徒なので同じ流れで行いますが、読経は結構違うなと感じますね。
インドぽい発音で読経している方がいらっしゃいまして、それは聞いていて新鮮でした。
そして、神道やキリスト教は違う流れになりますので、間違わないように気を付けないといけません。
…とまあ、様々な宗教の作法を見てきたのですが、これは何のためにしているのかな?と疑問に思うのですが。
先祖代々、受け継がれているのであまり疑問に思うことなくやってきた…。というパターンが多い気がします。
日本人は無宗教が多いとよく聞きますが、日常に信仰が寄り添っていないだけで、興味の無さが無宗教と言い表しているのかなと。
本当に無宗教の方はいらっしゃいますが、まれで、ほぼどこかに属されています。
勿論、熱心にされている方もいるとは思いますがそういった熱量はあまり感じることはありません。
ですが、故人様をお見送りする悲しさ、寂しさは凄く伝わります。
お見送りするための、一つの安心感、天国や浄土に行ってほしいと願う気持ちからなのですが、安らかにという気持ちの他に宗教は必要なのでしょうか?
釈迦の教えから、伝言ゲームのように様々な考えが入り、本来の教えとは全く違うものとなりました。
戦国時代など、宗教にすがる思いでやっていたのだと想像し、その時にあった教えを考え実行していたのだと思うのですが、
今は、時代は大きく変わっているのですが、宗教の教えは誤った方向に向かったまま、舵を元に戻せてはいません。
人は何を信仰して生きているのでしょう?
死ぬまで、人生という迷路を壁にぶち当たっては回避し、進めたら喜んで、またぶち当たって、平々凡々な生活を送れれば良しとするのでしょうか?
今の宗教は、人間の生きる意味を正しく…真理を伝えているとは思えません。
真理であるなら、世界は調和の世界になっているはずですが、そうはなっていないどころか、コロナで大変な思いをしています。
不調和な意識なほど、歪の体験が余儀なくされます。
何のために生きては死ぬのでしょう。
何を考え、行動していくのでしょう?
私たちは、それを深く考える必要に迫っています。