7/21(金)は、「青春18きっぷ」を使用して滋賀県のお城巡りに出かけました。1城目は「佐生日吉城」に上り、2城目の「和田山城」(滋賀県東近江市神郷町他)へ向かいました。
レンタサイクルで2.1km、約15分の距離でしたが、川沿いに走ったことからドンドン目的地から離れていき道が分らなくなり、スマホのナビを使ってようやく登城口がある「和田神社」に辿り着きました。おかげで25分もかかってしまいました。
「和田山城」の遠景↓
「和田山城」の歴史と城主について触れておきますと、「佐生日吉城」と同時期に、上洛する「織田信長」の侵攻を阻止するために「六角氏」が築いた土のお城です。
「和田山城」の縄張りの中心は、古墳を利用した「櫓台状」のモノと、それに対する西側には「張出し」の高まりがあり、それを「土塁」で繋ぎ、その間に「主郭」を置いています。更に、「櫓台」の下が北東方向に延びて数条の「横堀」が見られます。
「縄張り図」(『五個荘町史』第一巻に掲載分に、私が赤字で追記しています)↓
「和田神社」の鳥居を潜り拝殿へ、更に右手の石段を上って「奥宮」まで進むと灯篭の脇に「和田山城址」碑が立っていて、その脇から山道に入ります。
「和田神社拝殿」↓
「和田山城址」碑↓
山道が見えないくらいに腰辺りまで笹が繁り、蜘蛛の巣が至る所に張っていて、トレッキングポールを振り回しながら進むも、顔や腕にへばり付いていきます。ヒグラシも日中は低いところに潜んでいるようで、あちこちで飛び出していきました。
笹が繁る登城路↓
約10分くらい悪戦苦闘して上っていくと、木に「和田山城址」への案内が見えてホッとしたのが本音です。
「和田山城址」への案内↓
目の前には、縄張り図の西側に位置する「張出し」部分の盛土がありその左に「虎口」があります。そこを通ると右手には、先程「虎口」脇に見えていた盛土が南北に走る「土塁」西へ「張出し」ているのが良く分かります。
「張出し」を西側から見る↓
「張出し」北側に「主郭」へ入る「虎口」↓
「張出し」を内側から見る(中は窪みがある)↓
「張出し」から東方向(主郭方向)の「土塁」を見る↓
「虎口」から北側の「土塁」上を進むと、右手には小規模な敷地が拡がっています。まず気が付いたのは、その敷地の手前に窪みが見られました。
窪みは「空堀(横堀)」↓
「土塁」↓
良く見ると、中央からやや西寄りの南北に位置する「土塁」手前の「空堀」のようで、「空堀」は南北に別れ中央は「土塁」へ渡る「土橋」のように見えました。
「空堀(横堀)」↓
「空堀(横堀)」↓
2つの「空堀(横堀)」の間の「土橋」?↓
そしてその「土塁」の東側には、北側の「土塁」から南に突出した「仕切り土塁」があり、その間が「喰い違い虎口」になっているようでした。現地では、何処に「喰い違い虎口」があるのか分からずじまいでしたが、帰宅してから写真と「縄張り図」を照らし合わせてそこが「喰い違い虎口」であることが判明しました。
北側の「土塁」から南に突出した「仕切り土塁」↓
北側の「土塁」から南に突出した「仕切り土塁」と右側が「喰い違虎口」↓
「主郭」部分は、「喰い違い虎口」東側の本当に小さな面積部分で夏草に覆われていましたが、その東側には「古墳」跡で「櫓台」として使用していたのかもしれない高台が迫って見えました。
夏草に覆われた「主郭」↓
「主郭」から東側の「櫓台」を見上げる↓
「櫓台」へ上ると、「和田山」の三角点があり頂上であることが確認できました。「櫓台」から東側を見下ろすとかなりの高さがあり断崖絶壁になっていて「切岸」が施されているようでした。
「櫓台」上の「和田山北山山頂」↓
「櫓台」上にある三角点↓
「櫓台」から北東方向を見下ろす↓
「櫓台」下は段になり、更に北東方向に向かって敷地が延びていて、「郭」ではないもののかなり広大な敷地に守備の仕掛けが設けられているように見受けられました。
「櫓台」を横から見る(「切岸」が施されている)↓
「櫓台」を北東側の段下から見上げる↓
まずは、「櫓台」北側には「竪堀」があり、そこから北東方向に延びる敷地に沿っては「横堀」が3~4本見受けられました。更にもう少し北東へ進むと「土塁」が見られ、その両脇にも「横堀」が見られました。
「竪堀」(青いテープを巻いた木に沿って)↓
「横堀(空堀)」が北東に向かって続く↓
「横堀(空堀)」が北東に向かって続く↓
「横堀(空堀)」が北東に向かって続く↓
「横堀(空堀)」が北東に向かって続く(西方向)↓
「横堀(空堀)」が北東に向かって続く↓
「横堀(空堀)」が北東に向かって続く↓
「土塁」も北東に向かって続く↓
「土塁」も北東に向かって続く↓
「主郭」は小さいが、北から進軍してくるであろう「織田軍」に備えての防備を北東側でシッカリと構えたお城づくりを行っているようでした。
しかしながら、「六角氏」側は「和田山城」で持ちこたえるべく城兵を置いて攻撃に備えていましたが、その意に反して、「織田軍」はこの「和田山城」には目もくれずに「観音寺城」に近い「箕作山城」を攻め落としたことから、「六角義賢・義治親子」は「観音寺城」を捨てて甲賀郡へ敗走しました。
このような「六角氏」の敗走原因となった歴史的背景を感じながら、「奥宮」まで下山しました。
「奥宮」の木陰では、駅のコンビニで購入していたお握りを食べ、しばし休憩をしました。
次の目的地は、ここから2.4kmある「五箇荘」とその中心的存在の「金堂陣屋」で、次回のブログでお届けします。
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