5/17(水)~18(木)にかけて、「青森・秋田のお城巡りの旅」に出かけました。2日目は、秋田に宿泊したのでホテルを7時半に出て、レンタカー会社へ8時前に入りました。

 

手続きはスムーズに済み、8時に「能代方面」へ出発となりました。当初は「能代」で宿泊予定を計画していましたが、「能代」周辺のホテルがその日は全て満室、というのも「バスケット」の試合があったようです。私は今まで知らなかったのですが、「能代」は「バスケット」で超有名な町だそうで、今「バスケブーム」もあって宿泊する余地がありませんでした。

 

ということで、「秋田」から「秋田自動車道」で約1時間20分かけて「檜山城」(秋田県能代市)に登城しました。

 

登城といっても、レンタカーで「三の丸」付近まで行けましたので随分楽チンな山城制覇です。しかし、お城自体は東北地方では最大級の広さだそうです。

 

現地案内図の城域(今回廻ったのは右の山道から館神堂まで)

 

檜山城」の歴史と城主について触れておきます。当城は、「檜山安東氏」の本拠地として室町時代から戦国時代に使用された中世城郭です。

 

「安東氏」は、鎌倉時代に「陸奥」の広範囲を領し、鎌倉幕府からは「蝦夷」の統治者として任じられ南北朝時代まで栄えたた一族でした。そして1456年に「安東政季(まさすえ)」が「檜山」に築城します。その後5代に亘り「檜山安東氏」の居城となりました。

 

1570年に「安東愛季(ちかすえ)」が「湊安東家」を統合して全盛期を迎えます。「愛季」が亡くなると「実季」が後を継ぎ内紛が勃発、しかし巧く騒動を収めた「実季」は基盤強化を図ります。「豊臣政権」は、これに対して平和令違反を言い渡しますが「実季」は政治工作によって領有を公認されました。

 

1598年に居城を「湊城」に移し苗字も「秋田姓」に変え、「檜山城」は代官地となりました。

 

徳川政権となり「佐竹氏」がこの地に移封となると、「秋田氏」は「常陸宍戸5万石」へ領地替えになります。

 

「佐竹氏」統治下で、「檜山城」には「多賀谷宣家」が城代となり大規模な改築を実施し現在の縄張りに改変しますが、1620年に一国一城の令で廃城となります。

 

檜山城」の縄張りは、「本丸」を中心に北西方向に「二の丸」「三の丸」を配置しています。一方東側から北東方向にかけては、中世的な城郭で、「本丸」下の「切通し」を経て「東郭」、土塁でできた「桝形虎口」「堀切」を抜けると、「畝状地形」から高度を上げて古墳で出来た「将軍山」を最高地点としています。

 

「余湖さん」のHPからお借りしました

 

「将軍山」から南東方向へ「曲輪」「堀切」で遮断し、北方向の「将軍山」を下った平地部分に「屋敷」が置かれてその北側には「大土塁」を設けて防御を図っています。

 

 

私は前述の様に、「三の丸」手前の空スペースに車を置き登城開始しました。左手直ぐの所に案内板があり「本丸」跡方向へ向かう為に尾根を上がりました。深い「堀切」があって登りきると「櫓台」のような場所に「秩父宮殿下休憩地」の碑が立っていました。宮さんがこんな場所で休憩するとはどんな目的で来られたのでしょうか。

 

「三の丸」跡北西の深い「堀切」

「三の丸」跡北西の「櫓台」

「櫓台」のような場所に立つ「秩父宮殿下休憩地」の碑

 

持参の縄張り図を見ると、そこが「三の丸」跡の北西端のようでした。少し傾斜のある「三の丸」跡を下って行くと車が数台止まっていたので、登城者が結構いるんだな~と思いながら進みました。

 

「三の丸」跡の「櫓台」方向

 

「二の丸」跡はそんなに広くなくその脇から石段がありそれを上がると「本丸」跡のようです。上がってみると5~6人の方が発掘調査をされていて立入禁止となっていましたが、「本丸」跡奥までは入らせていただきました。先程の止めてあった車は調査隊のモノでした。

 

「二の丸」跡の「土塁」

「二の丸」跡

「二の丸」跡から石段を上がると「本丸」跡

 

「本丸」跡は高台で周囲は「切岸」で断崖絶壁になっていますが遠望は良好でした。南側は広い段になっていて山の中へ喰い込んでいます。東に向かっては、多くの曲輪が重なって見え、途中からどんどん上がっているようでした。

 

「本丸」跡での「発掘調査」

「本丸」跡に置かれる石(何か不明)

「本丸」跡からの南方向

「本丸」跡からの東方向

 

今から進むべき方向は、東方向であることを確認し、「本丸」跡から石段を下りて「本丸」跡を時計反対廻りに沿って進むと「切通し」となっている所を抜けます。

 

「本丸」跡南下の「切通し」

 

当日は風が強くて草が風でなびき、太陽が照っているものの涼しい感じがしました。

 

「本丸」跡の東側は平坦地となっていて、虎口らしい場所を抜けると「東曲輪」に入ります。右手には「土塁」が横たわりその先にある「桝形虎口」の「土塁」に連結しています。

 

「東曲輪虎口」(「東曲輪」内から、左は「土塁」)

「東曲輪」跡(「鞍部」から)

「鞍部」から「本丸」跡を見る

 

「桝形虎口」は左に折れて右に折れる通路を形成していて、抜けると右には「堀切」が、左には「竪堀」が見られ中央には「土橋」が渡ります。

 

「桝形虎口」(西から東方向へ)

「桝形虎口」(東から西方向へ)

「桝形虎口」東側の「堀切」

「桝形虎口」東側の「堀切」から「竪堀」へ

 

「桝形虎口」を構成している「土塁」上に上がると「堀切」の深さが実感できました。

 

「堀切」越しの「桝形虎口」の「土塁」

 

「土橋」を渡ると道が続いていましたが、右手にあって下から見上げると凹凸がある丘陵上を上がって行くことにしました。そこは、不規則に畝が凹凸ある傾斜の曲輪で、「畝状竪堀」とも言い難い場所でしたが、防御の仕掛けなのでしょうか、歩きにくいことは確かでした。

 

「縄張り図A の凹凸ある傾斜状の曲輪」

「縄張り図A の凹凸ある傾斜状の曲輪」

「縄張り図A の凹凸ある傾斜状の曲輪」

「縄張り図A の凹凸ある傾斜状の曲輪」

 

そこを抜けると、こんもりとした山状の土地となり「縄張り図」には「将軍山」と記載しています。古墳跡かもとのことでしたが、形的には「前方後円墳」ですが、東北地方に古墳時代があったのか、また「前方後円墳」を造る技術と埋葬するような人が居てたのかという意味で、本当に古墳だったのかと疑問に思いました。

 

「将軍山」

「将軍山」

「将軍山」(南西方向で見る)

 

「将軍山」から南東に向かって「曲輪」が見えますが途中に「堀切」があるようでしたので、下まで降りていきますと、深い「堀切」が見えました。

 

「将軍山」から南東に向かって伸びる「曲輪」

「将軍山」から南東に向かって伸びる「曲輪」途中にある「堀切」

 

再度「将軍山」頂上まで上がり、今度は北に向かって見下ろすと平坦地が拡がり「屋敷」跡と言われています。

 

「将軍山」頂上から見おろす「屋敷」跡

「屋敷」跡

 

「屋敷」跡の西側には、南北に「土塁」が走り、間が「虎口」となって口が空いています。そこから先程の「桝形虎口」へ繋がっているようです。

 

「屋敷」跡の西側「土塁」に口を開ける「虎口」

「屋敷」跡の西側「虎口」に続く「土塁」

 

私は先に、「将軍山」を東廻りした先に「大堀切」があるという表示があったので、「将軍山」から南東に伸びていた曲輪沿いに進みますと、その先には深かさがある「大堀切」を目にすることができました。

 

「屋敷」跡南東下から「将軍山」を見上げる

深さがある「大堀切」

 

「大堀切」の写真を撮った後、再び「屋敷」跡に戻り、少し斜面になった先に見える今度は「大土塁」を目指しました。「屋敷」跡の中腹あたりから西方向を見ると、遠くは「日本海」でしょうか遠景が望めました。

 

「屋敷」跡の北に見える「大土塁」

「屋敷」跡から望める「日本海」方向

 

「屋敷」跡の北端を覆う「大土塁」は、「一」と「冂」を組み合わせた形になっていて、その間は狭い囲まれたスペースとなっていました。そこは「館神堂」跡という「鬼門除けの神社」が置かれていたようです。

 

「大土塁」の「一」型

「大土塁」の「一」型(手前)と「冂」型(奥)の間

「大土塁」の「冂」型(奥)、右の裾は「一」型

「大土塁」の「冂」型の背面部

 

「大土塁 一」の上に立って「屋敷」跡を見下ろすと壮大感が味わえます。また、「大土塁 冂」の上に立つとその後ろに曲輪があるのが確認できました。

 

「大土塁 一」の上から「屋敷」跡を見下ろす

「大土塁」の「冂」型から後ろの曲輪を見下ろす

「大土塁」の「冂」型を裏から見上げる

 

「大土塁」から更に北側に進む山道があり、「御辞儀打台」と呼ばれる「侍屋敷」が置かれた曲輪のようですが、木々に覆われていて上から見おろすだけにしました。

 

「御辞儀打台」跡

 

この先も、北東へ進むと「水ノ口」、北へ進むと「星場台」、西に進むと「中館」から「茶園」「高山」といった城内の各曲輪に行けるようでしたが、時間的にそれらを巡るのは無理だったので、そこから折り返しました。

 

このように、「檜山城」の城域は非常に広大であることがわかります。

 

この先も「城域」が拡がる

 

「屋敷」跡の「虎口」から「桝形虎口」に道が繋がっていたようですが、敢えてもう一度「将軍山」を上って「Aの凸凹ある畝状曲輪」経由で「桝形虎口」を目指しました。

 

「桝形虎口」を通り「東曲輪」の「虎口」を出た所で、帰り道の途中約20m先ぐらいに「黒い物体」が動いているを目にしました。

 

帰り道の途中約20m先ぐらいに「黒い物体」

 

一瞬それが「熊」だと分かりましたが草の中に頭を入れて何かを食べているようで、こちらに気が付いていないようでしたので、写真を撮りましたが、その後、自分はどうすべきかと迷いました。風が強かったので、リュックに付けていた鈴の音が聞こえないようでしたので、鈴を手で振って音を強めると、「熊」がこちらを向きました。

 

「熊」は「子熊」のようで可愛い顔をして私を見ましたので、私はドキッとして後ズサリをすると、「子熊」は逃げて行きました。私は、ホッとして暫くしてから歩きだしましたが、ひょっとすると「親熊」がいるかもと思い慎重に進みました。これが鉢合わせとなると、熊は驚いて襲ってくるんだろうな~と思いました。

 

「子熊」が何かを食べていました

 

もう「本丸」跡下だったので、そのまま車へ直行しようと思ったのですが、「二の丸」跡の東に並ぶ曲輪先の「堀切」と途中の「曲輪への虎口」を見たかったので、そこまでは足を運び、そして「三の丸」下の道を車を置いている場所まで急ぎました。

 

「二の丸」跡の東に並ぶ曲輪先の「堀切」

「二の丸」跡の東に並ぶ曲輪の途中の「虎口」

「二の丸」跡の東に並ぶ曲輪の途中の「虎口」

 

一般道路から山道に上がる手前には「檜山安東氏城館跡」碑と「説明書看板」が立っていたので写真を撮ると、その先には「注意! クマ出没」の表示が立っていました。今まででも、このような看板を度々見てきましたが、本当に居るんだ!というこを再認識して、これからも「クマ除け鈴」はチャンと付けようと思いました。

 

「檜山安東氏城館跡」碑

「注意! クマ出没」の表示

 

次は、男鹿半島の西端にある「脇本城」へ向かいました。時間はまだ11時前で到着予定時間は12時頃です。

 

次回のブログでは、続日本100名城の「脇本城」をお届けします。

 

 

 

 

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