5/17(水)~18(木)にかけて、「青森・秋田のお城巡りの旅」に出かけました。初日は、「浪岡城」から「弘前城」(青森県弘前市)に向かいました。
前回のブログで「杉の大橋」まで見てきましたので、本日は橋を渡り「二の丸」跡南側から見て行きますが、その前に「中堀」に目をやると、「腰巻石垣」を目にすることできます。
「中堀」沿いの「腰巻石垣」
橋を渡ると、左に折れる桝形となった「二の丸南内門」(重文)が目の前に現れます。この門も基本的には「追手門」と同形式で「脇戸付き櫓門」「銅板葺き瓦」ですが、正面の柱「鏡柱」にはケヤキ材を化粧の為に貼っているそうです。
「二の丸南内門」(重文、番所出格子)
「二の丸南内門」(重文、鏡柱と門扉)
「二の丸南内門」(重文、城内側から、壁は真壁造り)
両脇には土塁がモッコリと盛り上がっているのがいいですね~ 「追手門」との違いは、「土塁」との間に「板塀」がないことです。すでに城内に入っているので必要がないのでしょう。
「門」と「土塁」の間には「板塀」は無し
「二の丸南内門」から右手奥には、先程「中堀」越しに見えた「二の丸未申櫓」(重文)が建ちます。
三重三階で四間×四間の正方形の二重の上に入母屋屋根が付き望楼が乗っかっています。特徴的なのは、櫓台と櫓の間には「腰板」が施されていますが、一部破損が見られます。また屋根は「栩<くぬぎ>葺」に銅板が貼られています。他の現存2櫓とはほぼ同形式で、全国で現存する三重櫓12基の内でここの3櫓は最小です。
「二の丸未申櫓」(重文、桁側から)
「二の丸未申櫓」(重文、妻側から、二重の上に望楼)
「二の丸未申櫓」(重文、櫓台の石は「すだれ加工」が施されている)
「二の丸未申櫓」(重文、腰板が付く)
次に、先程「中堀」越しで木々に邪魔されて良く見えなかった「二の丸辰巳櫓」(重文)に向かいます。こちらも「未申櫓」と同形式で、土塁の上に築かれた数段の石垣櫓台の上に建ち、下から見上げる屋根の裏の「軒垂木」等の「素木(しらき)造り」がより目立っていました。
「二の丸辰巳櫓」(重文)
「二の丸辰巳櫓」(重文、「軒垂木」等屋根裏は「素木(しらき)造り」)
またこの櫓の屋根も「栩<くぬぎ>葺」に銅板が貼られています。ここで気が付いたのですが、「鯱」は銅板で貼られていますが、鰭(ひれ)が凄く跳ね上がって見える勢いの良い「鯱」に見えます。
「二の丸辰巳櫓」(重文、鯱の鰭が跳ねている、屋根は「栩<くぬぎ>葺」に銅板が貼られている)
「下乗橋」東手前の「二の丸」跡にできている「弘前城情報館」の周囲には、「二の丸宝蔵」跡や「二の丸馬場の御高覧所」跡 が敷地の色を変えて表示されています。特に北側は「馬場」跡だったことが発掘調査から再現されていて、「馬場」跡と並行に区切りの「小土居」が見られました。
「二の丸宝蔵」跡
「二の丸馬場の御高覧所」跡
「馬場」跡と並行に区切りの「小土居」
赤い「下乗橋」を渡ったスクエアな敷地は、「本丸」の「馬出」となっていて、橋を渡った所には「馬出」の出入口を監視する「武者屯(たまり)御門」跡の「土塁」が盛り上がっていました。
「本丸」の「馬出」
「武者屯(たまり)御門」跡の「土塁」
本来でしたら「下乗橋」からは「御三階櫓」(重文)の姿が見える筈ですが、現在は「御三階櫓」台積替え工事の為に姿は少し奥まった所に見えます。
「下乗橋」
「馬出」から「土橋」を渡ると右へ折れる大きな桝形門があり、その角には「亀の石」と呼ばれている「鏡石」や「桝形」内正面に「鏡石」が並んでいるのを見ることができます。
「亀の石」
「本丸入口」の桝形内(「鏡石」が並ぶ)
「御三階櫓」(重文)が建っていた櫓台の前には木で組み立てられた閲覧場所があり、そこから見る「御三階櫓」は、横から眺める為でしょうか少し大き目に見えました。しかし、「櫓台」の上に乗っている雄姿の方が美しさが映えるような気がします。
「御三階櫓」(重文)の東面から南面にかけて
「御三階櫓」(重文)の東面から南面にかけて
「御三階櫓」(重文)の東面から南面にかけて
そこを下りて南側から見上げると本来の「下乗橋」から見る姿が目に映って見えます。ただ「内堀」越しに見ていた姿に比べると、「切妻破風を持った出窓」は非常に大きく見え、更に二重目と三重目の大きさの違いも明確に分かりました。
「御三階櫓」(重文)の南面を見上げる
「御三階櫓」(重文)の南面
「御三階櫓」の特徴は、「白漆喰総塗籠め」の三重三階の層塔型、縦長の狭間の様な「箱窓」がズラリと並ぶ上下には「長押」が施されています。南面と東面にだけに「切妻」屋根を持つ「出窓」があり初重の方が二重目よりも大きくなっています。最上階の「破風」内は「青海波」が銅板で描かれているのに気がづきました。
「御三階櫓」(重文)の東面から南面
「御三階櫓」(重文)の最上階「破風」内に見られる銅板「青海波」
一方、西面と北面は、鉄板戸の「連窓」が各階共に見え、破風は全くありません。
「御三階櫓」(重文)の西面
「御三階櫓」(重文)の北面
「御三階櫓」内に入ると、広さは感じず壁に柱浮き上がっているのが目立ちます。1階の出窓の狭間の様な「箱窓」と「石落とし」の大きいのが目立ちます。
「御三階櫓」内1階の出窓の狭間の様な「箱窓」と「石落とし」
「御三階櫓」の「引き戸」
階段は現存「天守」の特徴として非常に急角度で、最上階の屋根裏部分は「天井板」は張られない「小屋組み」となっています。窓から屋根を見ると青くなった「銅瓦葺」が目に入ります。
「御三階櫓」内の急階段
「御三階櫓」内の最上階天井裏は「小屋組み」
「御三階櫓」の「銅瓦葺」
「御三階櫓」の「銅瓦葺鬼瓦」
「御三階櫓」の「素木造り」の屋根裏
「御三階櫓」の北東広場には、「曳家工法」で80m移動させた後に、「御三階櫓」の隅から発掘された「イカの形をした隅石」が展示されています。全国でも稀な隅石の貴重な遺構で、「御三階櫓」移設中に目にできて非常に良かったです。
「曳家」時の写真(天守内に掲出)
「御三階櫓」の隅から発掘された「イカの形をした隅石」
「本丸」跡の南西隅には「本丸未申櫓」台が残っています。そこが1627年に落雷で焼失した「五重天守」台だった所に、焼失後櫓が建てられた痕跡です。更に、北西隅には「本丸戌亥櫓」台が残り現在は休憩所が置かれています。
「本丸未申櫓」台(1627年に落雷で焼失した「五重天守」台跡)
「本丸未申櫓」台(1627年に落雷で焼失した「五重天守」台跡)
北西隅の「本丸戌亥櫓」台
丁度、その二つの櫓台の間の視界が開けた所からは、「岩木山」が最も綺麗に見える場所ですが、当日は少し霞がかかっていてハッキリとは見えませんでしたが、目を下にやると堀代用の「蓮池」が見下ろせました。
「本丸」跡から見える「岩木山」
「本丸」跡から見おろす堀代用「蓮池」
「本丸」跡内には、「本丸御殿」が所狭しと建っていたことが模型によって分かります。
「本丸御殿」の模型(「御三階櫓」内に展示)
「本丸」跡の北側の坂道を下り赤い「鷹丘橋」を渡ると「内北郭」となりますが、「本丸」跡の北東隅が鬼門除けとして「隅欠け(角欠け)」となっている情報を得ていたので「内堀」越しに眺めることにしました。
水面に弧を描くように「石垣」が削られているのが確認でき、今回、「長勝寺の土塁」に続いての初見でワクワク感が募りました。
「本丸」跡北東隅の鬼門除けとしての「隅欠け(角欠け)」
「本丸」跡北東隅の鬼門除けとしての「隅欠け(角欠け)」
「内北郭」跡には、嘗て明治時代に武道修練場だった場所に「武徳殿休憩所」が建ちます。その周囲には、4代藩主「信政」の生母「久祥院」の屋敷があった場所で、1704年以降は「籾倉」「宝蔵」として使用された跡が表示されていたり、「子(ね)の櫓」の土塁の櫓台跡と礎石が見られます。この「子の櫓」は、平面4間×4間の「三重櫓」で他の現存三重櫓と同規模でしたが、1906年に花火によって焼失してしましました。
「武徳殿休憩所」
4代藩主「信政」の生母「久祥院」の屋敷があった場所で、1704年以降は「籾倉」「宝蔵」の使用跡
「子(ね)の櫓」台跡の礎石
「子の櫓」台跡から続く「土塁」
今回のブログではここまでとして、次回(3)は「二の丸丑寅櫓」から見て行きます。
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