「お城巡り紀行」二日目の二城目である「桑名城」(三重県桑名市)です。
「桑名城」の見所は「三の丸堀城壁」
「前編」では少し長い当城の「歴史と城主」までをお届けしましたが、「後編」では「本丸」跡から見ていきます。
前編 https://hama-sush-jp.pro/highhillhide/entry-12636704202.html
1635~50年位の「桑名城」縄張図(「本丸」跡「天守台」脇に掲出)
「本丸」跡へは、先ほど見てきた「三の丸」跡が南に細長く繋がって延びている所に架かる「九華橋」を渡って入ります。元々の橋は、もう少し北側に架けられ「本丸」側に「本丸門」がありました。
「本丸」はスクエアで、北東隅に四重六階の「天守」が置かれていましたが、1701年の大火で焼失し、その後は南東隅に置かれた三重三階の「辰巳櫓」を天守代用としました。また、南西隅には、「神戸(かんべ)城」天守を移築した三重三階の「神戸(かんべ)櫓」や、北西隅にも「三重櫓」が配備された堅固なお城でした。
「本丸」内の櫓配置古絵図(「辰巳櫓」跡前に掲出された解説版より)
「本丸」からの出入りは、前述の「三の丸」からの橋の他に、「二の丸」に繋がる「廊下橋」も架かっていました。
「舟入橋」方向の「二の丸堀」
現在の「本丸」跡への入口の正面には、「桑名城跡」碑とともに、「精忠苦節」碑が大きな石板に小さな文字がギッシリと刻まれ立っています。これは、「桑名」にとっては、忘れられない屈辱の「戊辰戦争」で、責任を負って処刑された公用人「森陳明」を偲んで明治23年に建立された慰霊碑らしく、正面に置かれています。
「桑名城跡」碑
「精忠苦節」碑
左へ曲がっていくと鎮座しているのが「鎮国守国神社」です。これは、1784年に「白河城」内に「松平定綱」を祀ったのが始まりで、その「松平(久松)家」の桑名移封に伴い「本丸」に祀り、後には「白河藩」の中興の祖でもある「松平定信」も祀りました。城内にあった神社ですが、明治40年に「本丸」跡に鎮座させました。
「本丸」跡に建つ「鎮国守国神社」
そのすぐ西側には「天守台」がありますが、規模を縮小して石組みを再現しているモノで当時の天守台とは違うようです。そしてその上に真っすぐ立つ塔は明治20年築の「戊辰殉難招魂」碑だそうです。現在は、石垣の崩落の可能性があるので上がって見学はできませんでした。
「天守台」と「戊辰殉難招魂」碑(正面南側から)
「天守台」(南西方向から)
「天守台」(西側から)
「本丸」跡を横切って、「本丸」跡にある「神戸櫓」跡に向かいます。こちらは盛土と少し石がある程度で、前述したように「神戸城」天守を移築したモノが建っていたところです。「吉の丸」堀越しに見ると、土の崩れ防止の為に新しい石積がされていますが、当時のものとは無関係です。
「本丸」跡(南向き)
「神戸櫓」台(東側から)
「神戸櫓」台(「吉の丸」堀越しに見る、石垣は護岸用)
「神戸櫓」台(「奥平屋敷由縁の碑」のある「二の丸」跡の敷地から見る)
それと東側に対として建っていたのが「辰巳櫓」ですが、周囲二段の石積みの上を土塁にしてその上に櫓が建てられていたようです。天守代用でしたが、前述のように明治新政府に焼き払われました。櫓台上には、「大砲」が置かれていますが、その所縁は解らないそうです。
「辰巳櫓」台(「本丸」跡側より)
「辰巳櫓」台(東側より)
「辰巳櫓」台上に備え付けられている「砲台」
その東側は、陸続きとなった「朝日丸」跡で現在は「九華公園球場」になっていますが、当時は、「本丸」跡と「朝日丸」跡の間が「堀」になっていました。
「朝日丸」跡(現 九華公園球場)
「本丸」跡と「朝日丸」跡の南側には、幅広い「吉の丸堀」が水を湛えていて、現在は、当時には無かった赤い美しい橋で「二の丸」跡に渡れるようになり、途中には休憩所も設けられています。そこから「本丸」跡の「神戸櫓」台や「辰巳櫓台」の写真もいいです。
「吉の丸堀」が水を湛え、現在は、赤い美しい橋で「二の丸」跡へ繋がる
赤い美しい橋の中間は休憩所(「辰巳櫓」台より)
「二の丸」跡は、現在二つの島に分かれ赤い橋で繋がっていますが、当時は「二の丸」跡で現在「奥平屋敷由縁の碑」(後述)がある敷地からも陸続きでありました。
「二の丸」跡(「吉の丸堀」と「二の丸堀」の間に浮かぶ)
更に「二の丸」跡の南側にも広大な「二の丸堀」が掘られていて、「桑名城」全体でも「水堀」の守りは完璧です。現在は、更に「二の丸堀」に架かる「二の丸橋」を設けて、「吉の丸」跡に続くようになっています。
「二の丸堀」(遠くに、赤い「二の丸橋」が見え、右側一帯が「吉の丸」跡)
上述の「奥平屋敷由縁の碑」がある「二の丸」跡の敷地ですが、東面の水際には当時の「二の丸石垣」が現存しています。
「二の丸石垣」(「奥平屋敷由縁の碑」がある「二の丸」跡)
「二の丸石垣」(「奥平屋敷由縁の記」碑がある「二の丸」跡、「谷積み」が見られる)
「奥平屋敷由縁の記」というのは、1635年「本多家」の後に入城した「松平(久松)定勝」の奥方(松源夫人)は「奥平家」出身で亡くなるまでここに隠棲した場所でしたので碑が立ちます。奥方の叔父の子孫「松平(奥平)家」は、その後「桑名城」城主として約110年間藩主でもありました。
「二の丸」跡に立つ「奥平屋敷由縁の記」碑
この敷地内には石が積まれていました
そこから橋を渡った敷地は「三の丸」跡だった所でしょうか、「本丸」跡に入る前に通った管理事務所前には、「刻印石」が並べられていました。また、その入口には、「吉津御門」と川口付近の石垣が移築されています。私は、別のパンフレットでこの存在を知っていましたが、事前情報がなかったら見逃していたかもしれません。
「刻印石」
「吉津御門」と川口付近の石垣(管理事務所前)
「二の丸堀」を「扇橋」で渡り、「九華公園」を南下していき、「吉の丸」跡に建つ「立教小学校」を見ながら西側に折れる道を進んでいくと、そこには「三の丸堀」を渡る「南大手橋」が架かります。
現在の「南大手橋」は、コンクリートの橋と北側に木橋が並列に並んでいます。当時からこの場所だったそうです。南側の堀はそこから埋められていますが、少し南に下った場所には堀の石垣でしょうか石が山積みにされています。
コンクリートと木の両方の「南大手橋」
コンクリートの「南大手橋」(城外方向から)
山積みにされた堀の石?(この辺りまでが「三の丸堀」だったが今は公園に)
そこから、北上して行きますが、西側には、旧「東海道」が入り込み「桑名宿」で栄えた界隈になります。
東海道五十三次「桑名宿」について
そしてこの「南大手橋」から最初に訪問した「七里の渡し」跡付近まで「三の丸堀」が水を湛え、「三の丸」跡の堀壁には石垣の城壁が約500mも続いていきます。これは非常に壮観で、「桑名城」跡の最大の見所だと思います。
「南大手橋」からのぞむ「三の丸堀城壁」
「三の丸堀城壁」
途中「片町」辺りでは、右から左へ屈折させ、「出隅」「入隅」を見せています。また、明治時代になってから造られ「船着場」と階段も見られます。
「三の丸堀城壁」の出隅、入隅
「三の丸」堀が右側に屈折して北へ延びる
「三の丸堀城壁」の出隅、入隅
「三の丸堀」に下りる階段と船着場(これは、明治時代に築)
また、少し北の「中橋」西側には、立派な「春日神社」の楼門とその前に銅製の「鳥居」が異常な高さで立ちます。これは、1667年に藩主「松平定重」によって建立されたモノです。
「春日神社」の楼門
「春日神社」の銅製の「鳥居」
更に北に進むと、「北大手橋」があり、こちらもコンクリート製の橋に変わっていますが、位置は昔のままで、東側「三の丸」跡に入った所はすぐに左折れの枡形になっています。そこからは、スタート地点の「蟠龍櫓」がのぞめます。
「北大手橋」(城外より、左に屈折する枡形)
「北大手橋」を渡った「三の丸」跡から「蟠龍櫓」をのぞむ
ここから再び「七里の渡し」付近まで戻ると立派な料亭が並びますが、この界隈には「渡し」を渡る前に大名等が宿泊できる「大塚本陣」やその「脇本陣(駿河屋)」が建ち並んでいた場所で、その跡は明治時代から料理旅館「船津屋」や「山月」になっています。また、手前の道筋は「花街」として栄えた通りです。
「大塚本陣」や「脇本陣」跡地に建つ料理旅館
旧「花街」
「桑名駅」に戻る途中には、「三崎見附」跡碑がありました。ここは、城内に四ケ所あった見附の一つで、「三崎門」と「番所」が置かれて、城外から特に「東海道」からの出入りの監視を強化していました。他に吉津屋見附には「鍛冶町門」、京町見附には「京町門」、七曲見附には「釘貫門」が建っていました。
「三崎見附」跡
さて、帰宅に備えて「桑名駅」まで急ぎます。自転車を返却して帰りは「近鉄」です。
「桑名駅」(JRと近鉄)
「近鉄桑名駅」では当初予定時間より1本早い急行に乗車して「伊勢中川」駅まで向かい、そこから「上本町行」急行に乗り換えて大阪方面へ向かいました。
二日間で万歩計は38,000歩でしたが、久しぶりに一泊二日の「お城巡り」を満喫出来て、コロナ禍下での鬱憤をはらすことができました。そして、今後の「お城巡り」へのパワーを更に蓄積ができた二日間となりました。
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