コロナ禍の中(10/29~30)、初めての一泊二泊のお城巡り紀行、初日の二城目は「小牧山城」(愛知県小牧市)です。

 

小牧山頂上に建つ城郭建造物風の「歴史館」

 

「名鉄犬山線」の「小牧駅」から東方向に見える「小牧山」を目指し徒歩で約17分、既に15時半近くになっていましたので、日没も近く陽も傾き、頂上の「歴史館」の閉館も16時半なので、少し焦り気味に急ぎました。

 

小牧山頂上に建つ「歴史館」(東側から)

 

事前に、「小牧山城」の縄張り図面を見ながら、山腹にある東西南北の「虎口」を順番に攻めようと計画して図面を持参していましたが、到着してみて山の大きさには驚き時間的に無理だと気付きました。

 

縄張図(これは、現地に掲出されていたモノ)

 

山麓に入った場所が、東南端にある「虎口」(これは後述します)からでしたので、「大手道」は帰りに下りようと思い、まずは「れきしるこまき」という「史跡情報館」の右脇にある登場路をどんどん登って行きました。

 

帯曲輪地区の案内図

「帯曲輪」跡(左手の建物は「れきしるこまき」という「史跡情報館」)

途中の道から見下ろすと土塁と堀が(これは、後から知りましたが「小牧・長久手の戦い」時に造築したものらしい)

 

しかしながら、途中で立入禁止となっていたので、戻りながら別の道へ入るとまた立入禁止道となり、下りたり上がったりを繰り返す内に、「歴史館」へ繋がる「大手道」の九十九折れの階段に出てホッとしました。

 

九十九折れの「大手道」(もう手前は、「主郭虎口」)

まもなく「主郭虎口」

 

階段を少し上がった所が「主郭」で、その山肌には、沢山の巨石や石組みが見られ、その説明書きは後からゆっくりと見るとして、「歴史館」に兎に角、入館を果たしました。

 

「主郭跡」碑

 

館内は「小牧山城」の成立ちや歴史についての説明書きがあり、発掘部分については館外で表示されているようでした。

 

ここで少し、城主やお城の成立ち、歴史について触れておきます。

「織田信長」が「桶狭間の戦い」後、すぐに美濃攻めの軍を起こすべくまずは「徳川家」と「清須同盟」を結び、美濃攻めの本拠地として選んだのが濃尾平野のど真ん中にある標高86mの「小牧山」でした。

 

「信長」は「丹羽長秀」を奉行として築城させ、長期滞在も視野に入れて城下町も移しましたが、美濃攻略が比較的に早く終わったので居城を「稲葉山城(現岐阜城)」に移し、当城は4年で廃城とします。

 

その後ここが表舞台になるのが、「信長」死後に開かれた「清須会議」で、「羽柴秀吉」による扱いに不満を持っていた「信長」次男の「信雄」は、「徳川家康」に寄り添う形で、「徳川家康・織田信雄連合軍」対「羽柴秀吉」という構図での対峙をすることとなって、連合軍の「陣城」として改修されました。

 

従って、「小牧山城」を見る際には、「織田信長」による主に「主郭」周辺の石垣と「大手道」、「徳川家康」による中腹から麓にかけての「横堀」と「枡形虎口」にポイントを置くことのようです。

 

さて、館内の資料から成立ちや歴史を理解しながら、「歴史館」最上階の展望部分からの眺めを楽しむ為に階段を上りました。

 

この「歴史館」の建物は、西本願寺の「飛雲閣」をモデルにして1968年に開館したもので、望楼型のなかなか斬新なデザインの外観を誇っていると思いました。

 

「飛雲閣」をモデルにした斬新な外観デザインの天守風建造物

「飛雲閣」をモデルにした斬新な外観デザインの天守風建造物(東面)

「飛雲閣」をモデルにした斬新な外観デザインの天守風建造物(北=裏面)

 

当時「織田信長」は、このような重層の天守といわれる建造物は築造していなかったでしょうが、山頂から360度の範囲内の敵の動きを察知できただろうな、ということを体験することができました。

 

また、ここを拠点に、当時の「稲葉山城」にいた「斎藤龍興」を攻めるべく陣取ったと思いますが。北北西方向に、小さく「金華山(稲葉山)」を望むことができました。また、名古屋駅周辺に建ち並ぶビルの摩天楼は非常に目立っていました。

 

「金華山(稲葉山)」をのぞむ

名古屋駅周辺に建ち並ぶビルの摩天楼をのぞむ

 

展望台から真下を見下ろすと、南東方向に多くのブルーシートが被せられた発掘調査中の作業現場があり、そこの凹凸が多分東南の「主郭虎口」ではないかと想像しました。

 

東南の「主郭虎口」かな?

東南の「主郭虎口」かな?

 

南正面の「主郭虎口」は大手道の最期、「歴史館」の敷地内である「主郭」に入る際に通った所で、入口には、大きな方形の「花崗岩」の石と、尾張徳川家19代の「徳川長親」の銅像が立ちます。

 

「小牧山」は元々「尾張藩徳川家」のものでしたが、明治維新時に明治政府に没収されていました。しかし「長親」は「小牧山」を自費で買い戻し、昭和5年に小牧市に贈られた山です。

 

尾張徳川家19代の「徳川長親」の銅像

大きな方形の「花崗岩」の石

 

「主郭」の西側から南東側にかけた山肌には、積まれていた石が落ちた「転落石」が散らばっています。

 

主郭周辺案内図

転落石

転落石

 

また、「主郭」の下部を腰巻石垣風に巨石をとり巻いている箇所や、「石垣」も見られました。

 

石垣

巨石の石垣

 

説明書きが立ち並んでいて色々な発掘情報を目にすることができました。現在の見た目では判らないですが、石段は上下段になっていたり、入隅と出隅を繰り返しながら主郭を取り囲んでいたそうです。また、「根石」は良好に埋まっていたともありました。

 

「上下段の石垣」の発掘状況

「下段の石垣」の発掘状況

「段築状の石垣」の発掘状況

 

私が一番驚いたのは、「主郭」下の空き地に細かい石が積み上げられている塊が数か所ありましたが、それが発掘された「裏込石」だったとのことで、「小牧山城」のこれだけの石垣にも拘わらず、これ程の「裏込石」を詰め込んでいた、ということは、他の大城郭の石垣の裏に眠る「裏込石」の量の多さは想像に絶するものが有りました。

 

発掘された「裏込石」の置き場

発掘された「裏込石」の置き場

 

「主郭」から夕陽を見ながら、九十九折れの「大手道」を下り、図面でいう「虎口b」に当たる所から、東西横に延びる「大手道」を突きあたりまで進みます。その場所から左折すると、「大手口」に向かうほぼ真っすぐに降りる「大手道」となります。

 

東西を走る「大手道」(左手に、「土塁」と「横堀」がある)

 

この付近には、「小牧・長久手の戦い」時に、徳川方が築いたと言われている「土塁」と「横堀(空堀)」が見られました。

 

「小牧・長久手の戦い」時の「土塁」

「小牧・長久手の戦い」時の「横堀」

「小牧・長久手の戦い」時の「横堀」

 

それでは、「大手道」を下ります。この両脇には排水溝と3段の石組があったそうですが、石組は見られず排水溝らしきものは在ったような気がします。「織田信長」が「安土城」を築いた時に、「小牧山城」で培ったノウハウの一つの真っすぐに延びる「大手道」を採り入れ再現したと謂われています。

 

一本道の「大手道」下り

一本道の「大手道」(下から見上げたところ)

一本道の「大手道」(もう少し下った場所から見上げる)

 

ずーと下りていくと、左手に開けた場所があり、大きな土塁と空堀を見下ろせます。芝が刈ってあるので非常に綺麗な膨らみと凹みが眼に入ります。ここも、「小牧・長久手の戦い」で徳川方が手を入れた場所です。

 

「小牧・長久手の戦い」で徳川方が手を入れた「土塁」と「空堀」

「小牧・長久手の戦い」で徳川方が手を入れた「土塁」と「空堀」

 

右手には“ポツンと一軒家”如く墓所が立ちますが、これは、尾張藩九代藩主「徳川宗睦(むねちか)」の墓標です。大尾張藩の藩主が菩提寺で弔われないで何故「小牧山」にあるのか不思議でネットで調べましたが、元々は菩提寺「建中寺」に墓所があったのを、昭和時代中頃に、こちらへ移されたとか。

 

「大手道」脇に立つ『尾張藩九代藩主「徳川宗睦(むねちか)」の墓標』

 

理由は、戦後の区画整理で市内にあった墓所の移転計画で、敷地面積の都合上、全ての藩主の墓所を移転できず、それを聞いた小牧の方が、小牧にも所縁(小牧代官所を設けた)があった「宗睦」の墓石を貰い受けて「小牧山」へ移設したそうです。

 

少し長くなりましたが、それを見てホッと、納得しました!

 

下山したら既に16時半で、「れきしるこまき(小牧山城史跡情報館)」の入館時間を過ぎていましたので、17時発のバスを待つためにバス停まで行きました。

 

待ち時間の間、もう一度麓の「小牧・長久手の戦い」時に築造された、土塁、空堀、枡形虎口の写真を撮りに向かいました。

 

「小牧・長久手の戦い」時に築造された南東側の枡形虎口(内側から右に折れ曲がる)

「小牧・長久手の戦い」時に築造された南東側の枡形虎口(外側から左に折れ曲がる)

「小牧・長久手の戦い」時に築造された土塁(内側から)

「小牧・長久手の戦い」時に築造された空堀(土塁の外側から)

 

曲輪図をあらためて眺めましたが、私が見た所は、「大手曲輪地区」、「帯曲輪地区」の南東箇所、「主郭曲輪地区」の南半分で、その北半分や「西側曲輪地区」「西側谷地区」、「帯曲輪地区」の北東と南西部分は見学できていません。やはり、山丸ごと見るのは大変なことだと感じました。

 

地区区分図

 

バスで「名鉄小牧駅」へ行き、そこから来る時と逆方向に「平安通」まで乗車し、「名城線」で一駅向こうの「大曾根駅」でJRに乗り換えです。

さー、そこから、宿泊地のJR中央本線「恵那駅」まで快速列車ですが、通勤タイムの18時発でしたので、「高蔵寺」辺りまでは車内一杯でしたが徐々に乗客も減り、約55分乗車して「恵那駅」に着くころには、車内は寒々としていました。

 

次回ブログは、翌日に登城した「岩村城」をお届けします。

 

 

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