「高取城」(奈良県高市郡高取町)の「中編」です。

 

前編 https://hama-sush-jp.pro/highhillhide/entry-12581714625.html

 

「ニノ丸」跡のベンチで簡単なランチを済ませ、「太鼓櫓」「新櫓」の裏側に廻るべく今度は「十五間多門」跡の長い櫓台の間を抜けて「本丸下の段?」に入ります。右手に二つの櫓が繋がる櫓台の裏側となり、左手には「本丸」跡内に立つ立派な「天守台」が見えます。

 

「太鼓櫓」「新櫓」の各台跡

「十五間多門櫓」台

「十五間多門櫓台」(新櫓台より)

「太鼓櫓」(右側)「新櫓」(左側)跡の裏側

「太鼓櫓」台と継ぎ足しの筋が見える

「新櫓」台

「天守台」

 

「太鼓櫓」「新櫓」へ階段で上にあがりますと両櫓跡ともに礎石が残ります。そして「二ノ丸」跡が見渡せ、「十三間多門」の枡形も上から良く解ります。また、「本丸下の段」跡側の真下には「搦手門」跡があり、そこから下側へは山城ならではの水の確保を担う「七つ井戸」がありますので、そちらへ下りて行きました。

 

「太鼓櫓」台

「新櫓」台

「十三間多門櫓」跡が見下ろせる

「搦手門」跡(ここから下に「七つ井戸」がある)

 

急坂を降りるとすぐの所に「井戸」が二つ見られ、更に下の方をのぞむと湿気た場所が続きます。それ以上は下りないで、戻る為に振り返ったその光景は、筆舌に尽くしがたい何段にも重なる石垣が見事でした。写真を掲載しますので、どうぞご堪能ください!

 

「七つ井戸」の一つ

 

「七つ井戸」付近から見上げる「本丸」跡方向の石垣

「七つ井戸」付近から見上げる「搦手門」跡方向の石垣

「七つ井戸」付近から見上げる「新櫓」台方向の石垣

 

その周辺には、瓦が至る所に散乱しています。この後にも各所で瓦破片の散乱場所に出会いますが、瓦葺の城郭建造物が林立していたことを物語る証拠だと思いました。

 

散乱する瓦破片

 

「本丸」跡の「天守台」脇迄戻り、西面の高石垣を見ながら北面に沿って進むと、「本丸虎口」があります。こちらは、入ってすぐの所に門構えがあり左→右→右と進んでいくと再び門が構え、左手に折れた正面に石垣の壁が設けられ、左右に通路が分かれるという複雑な構造となっています。

 

「本丸」跡の西面石垣

「本丸」跡の北面石垣

「本丸虎口」跡

 

左へ進むと「本丸」跡の広い広場へ、右へ進むと「天守台」に至ります。まずは「天守台」を見ますと、南側には「穴蔵」の出入口があり左側には石棺が転用石として使用されるのが見られます。

 

「本丸虎口」跡から「本丸」跡全景

「本丸虎口」跡(本丸跡から「天守台」方向」)

「本丸虎口」跡から「天守台」方向

「天守台」(南東隅)

「天守台」の南の「穴蔵」(左の直方体の石は石棺)

 

「天守台」の上には、白亜の三重三階の「天守」が上がっていたそうです。

そして、「本丸」跡周囲は場所によっては二重の多聞櫓で囲われ、「天守」の南側には三重の「小天守」、「本丸」跡の南東隅には三重の「煙硝櫓」が、東北隅には二重の「鉛櫓」と本丸虎口脇に睨みを利かす二重の「馬具櫓」が建ち並ぶ、「連立式」の大城郭であったようです。

 

「本丸」跡からの遠景

「小天守台」

「小天守」の敷地

「本丸」跡南側の「多聞櫓」台

「焔硝櫓」台

「鉛櫓」台

 

「馬具櫓」台

 

「本丸」跡の石垣には特徴が見られ、東北隅は大きく内側に折れて窪んでいますし、「本丸下の段」から見ると、非常に複雑な積み方が見られます。まず、窪んでいるのは、東北隅という鬼門を意識した積み方になっているのでしょうか。「松江城」(島根県松江市)の東北隅とよく似た形状になっていました。

 

鬼門?を意識した内側に折れて窪んでいる「東北隅」

内側に折れて窪んでいる「東北隅」と継ぎ足して補修した跡

 

また、複雑な積み方に見えたのは、東面の隅の石垣の補修の為に下部を繋ぎ足したことからこのような見え方をするのだと思いました。「高取城」ではここ以外にも継ぎ足しの補修工事の跡が多く見られるそうで、城主(藩主)「植村家」は、幕府からは特に許可を得ることなく絶えず修復や補修の普請を行うことができる「常普請」が認められていたからだそうです。

 

「本丸」跡南面の継ぎ足し石垣 

「本丸」跡南面の継ぎ足し石垣 

 

また、「本丸」跡南側石垣の長い法面(のりめん)は、横から見ると大きく内側湾曲する「平ノスキ」という崩落を防ぐ手法を採用していて、それがまた石垣の美しさを醸し出しています。

 

「本丸」跡の南面石垣(内側に湾曲する「平ノスキ」手法の高石垣(「小天守台」方向)

「本丸」跡の南面石垣(内側に湾曲する「平ノスキ」手法の高石垣(「小天守台」から「焔硝櫓」方向)

 

ここで、少し城主(藩主)について、お話をしておきます。

 

「高取城」は、地方豪族であった「越智家」が1332年に築城したのが最初で、その後「越智家」の支配下にあり戦国時代には本拠地となりました。しかし「越智家」は、「筒井家」の支配下となり「織田信長」の軍門下で「越智家」は滅ぼされ、「高取城」は廃城となります。

 

豊臣政権では、「豊臣秀吉」の弟「秀長」が「大和郡山城」に入城し、「高取城」はその支城として改修され、「秀長」の重臣「脇坂安治」、続いて「本多利久・俊政」が入城してからは、近世城郭として大改修が行われます。

 

関ケ原の戦いでは、「石田三成」西軍の攻撃を受けましたが持ちこたえ、戦後は「本多家」のお城となります。しかし、嗣子なく当城は幕府直轄地となり城番が管理します。

 

1640年に、旗本だった「植村家政」が大名に取り立てられて2万5千石で「高取城」に入ります。この「植村家」は、まだ「徳川家」が「松平姓」を名乗る時からの「徳川家譜代」の家臣で徳川政権の基盤を共に築いた家柄でした。

 

「植村家」が入封した後は、譜代大名としては珍しく城主が替わることがなく安定して 14代が幕末・維新まで続きます。また、代々の名前には、「家康」からの「家」の一字を与えられて、初代の「家政」以来「家」を名乗ることが許されています。幕末には、「天誅組」を鳥が峰にて撃退するなどの功績をあげています。

 

次回ブログでは、「本丸下の段」「吉野口門」跡から「ニノ門」跡へ向かいます。

 

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