今回の日帰りお城巡り旅行(2/20)は、速報で投稿しましたが、「竹生島にあるお城遺構」巡り、横目で眺める「長浜城」、そして本格的な登山を兼ねた「小谷城」巡りでした。ブログは、続100名城の「小谷城」からスタートして、3回(前編、中編、後編)に分けて紹介したいと思います。

小谷城周辺史跡案内図

 

JR「長浜駅」から北に三駅目のJR「河毛(かわけ)駅」で下車し、駅で借りたレンタサイクルで「小谷(おだに)城」(滋賀県長浜市小谷郡)を目指しました。徒歩では20分~30分位、バスの運行も土日祝日はあるようです。

 

東に向かって真っすぐ延びる道を進むと、右手に長い単独の小山が道に迫ってきますが、これが「虎御前(とらごぜ)山」です。この山は、「織田方」が、「浅井長政」の「小谷城」攻めの際に「織田信長」「柴田勝家」「木下藤吉郎」等の砦が築かれた山です。

虎御前山(番所跡と御茶屋跡の中間地点から)

 

ここで、少し「小谷城」攻めに至った経緯と城主「浅井家」について触れておきます。

 

「小谷城」は、「浅井亮政(すけまさ)」が、跡目争いをしていた守護大名「京極家」を迎えるに当たって築城しました。二代目の「久政」の時には江北の「六角家」と頻繁に戦いが繰り広げられていました。

 

しかし三代目の「長政」の時には、「六角家」に大勝利を収めて実力を大いに轟かせたことから上洛を目指す「織田信長」の目に留まり、その妹「お市の方」を「長政」に嫁がせる政略結婚によって両家の同盟関係が築かれました。

「長政」と「お市の方」像(JR河毛駅前)

 

一方で、「浅井長政」は「朝倉義景」とも盟友関係を保っていましたので、「織田信長」による「朝倉攻め」が行われた時には、「長政」は「信長」に対して反旗を翻し、「織田軍」対「浅井・朝倉軍」による「姉川の合戦」が火ぶたをきります。

 

この戦闘では、「朝倉軍」が退いたことから「浅井長政」は「小谷城」に敗走せざるを得なくなって、「織田軍」による「小谷城攻め」が勃発することとなりました。

 

この「小谷城」を巡っては、様々なドラマが展開され、「久政」「長政」親子の自刃、「お市の方」と浅井三姉妹「江、初、茶々」の秀吉(当時は藤吉郎)による救出劇は有名です。

 

さて、「小谷城」を目指すルートは何種もありますが、一般的な「追手道」コースを選択しました。まずは、「小谷城戦国歴史資料館」で基礎情報をインプットし、ここで戴いたパンフレットに挿入された「小谷城跡案内図」を見ながらの登城です。

この「案内図」と資料館前に置いている「杖」は非常に役立ちました。

「小谷城戦国歴史資料館」

 「史跡小谷城跡案内図」(入場パンフの中に挟み込みされたもの)

 

当初予定では「出丸」跡から入る予定でしたが、「資料館」脇から「追手道」に入りました。「出丸」へは、下山してから見に行きました。

 

「案内図」では、最初に出会う郭が「金吾丸」跡ですが、かなり先になります。「出丸」跡からの「追手道」に辿りつくまでの急坂、更にそこからのだらだらと続く坂道は非常にしんどいものがありました。

だらだら坂部分の追手道

 

 

途中の「間柄峠」を経て「望笙(ぼうしょう)峠」着いた時には顔から汗が噴き出る程でしたが、湖北の町と琵琶湖を遠望できる眺めは素晴らしものがありました。

間柄峠跡

望笙(ぼうしょう)峠

「望笙(ぼうしょう)峠」からの遠望

 

そこで一息いれ、今まで上ってきた距離とほぼ同距離を上り続け「金吾丸」跡に到着します。ここは、「久政」時代とそれ以前でしょうか、「六角高頼」が攻めた時、「朝倉教景(金吾)」が援軍に来てここに陣を置いたことから名付けられたようで、4段の郭と土塁があるそうでしたが、木々で良く解りませんでした。

金吾丸跡

 

 

「金吾丸」跡から下りた所が「番所」跡になり、そこから次々と郭が段によって繋がって上って行きます。

番所跡図

番所跡

 

「番所」跡から「御茶屋」跡、「御馬屋敷」跡、「馬洗池」が繋がりますが、その途中にある高台からは、先ほどの「望笙(ぼうしょう)峠」以上の遠望が楽しめました。「虎御前山」が真上から見下ろせる絶好のポジションです。

 

「御茶屋」跡は、「番所」跡の上に有り、名前とは全く異なった主郭の最先端で軍事施設があったそうです。各郭には、郭図と解説がありますので、非常に解りやすいです。

 「御茶屋」跡、「御馬屋敷」跡、「馬洗池」、「桜馬場」跡図

「御茶屋」跡

 

続く「御馬屋」跡は、「本丸」の前面にあり本丸を守る郭という位置づけで、西側の深い谷である「清水谷」側斜面に「帯曲輪」を設けています。そして当郭の後方にある「馬洗池」は、馬を洗う為の池のイメージを受けますが、山城に必要な飲料水確保の池であったようです。

 「御馬屋敷」跡

馬洗池

 

さあここからは、郭が段々畑のように重なって上がって行きます。一番手前の「桜馬場」跡の入口付近には、「首据(くびすえ)石」がありますが。こちらは、1533年に京極家被官」であった「今井秀信」の首をここに晒したとの伝説がある石です。

 「首据(くびすえ)石」

 

「桜馬場」跡は、細長く左右ニ段、西側の曲輪には建物の礎石が見つかっている曲輪です。こちら脇道からは、丁度「本丸」跡東下にある「赤尾屋敷」跡に繋がります。ここで、「浅井長政」が自害した場所と言われています。「桜馬場」跡内には「浅井家の供養塔」が立てられています。

「桜馬場」跡入口(奥には、「黒金門」跡)

「桜馬場」跡

「赤尾屋敷」跡へは右の道を下る

「桜馬場」跡内に立つ「浅井家の供養塔」

 

次回ブログでは、「小谷城」(中編)をお届けします。

 

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