「耳をすませば」(ジブリ)……ではなく、ほんとうにただ耳をすませるとは?
音を聞く場合には、これはなんだろうかとか、それについて反応しよう、ではなくて、ただ「音環境に対して、自分を開く感じ」
これは意外でした。音の美しさに没入しようとか、そういうのとも違う。
つい、最後の画像では鯉に意識が行ってしまいました(笑)が、視覚はほんとうに、ちょいちょい、と人の心を引きます。
で————このスピ系ドクター暁先生は、ネドじゅんさんほか、ノンデュアリティとか、「無」の平安を追求しておられるのですが、今回
のワークは、「音楽を聴く」こととは違う。と。
ただ、音そのものになるワーク。
🌟BGMが好きとか、いつも音楽で気分をあげる、とか、そんなふうに音楽を使う場合は————気づいてみると、「時間」の中を運ばれていきたい、受け身な感覚、時間を追ってゆく感じになります。
「音の中にただいる」ニュートラルではないんだな……。
たしかに音楽を追ってゆくと、気持ちのよい何かの波にもっとのってゆきたい、感じになります。それは
「何かがこのさきにあるのを期待」している状態でもある。
もっと綺麗な和音の解決とか、独特な音階のハーモニーとか、を求めて、気分が昇ろうとするのですが。
(今回のは外から来る音だけをきく「耳をすます」やりかたです)
🌟つまり「未来」がないので、期待や先をいそぐ気持ち、ノリ、リズムをほしい気持ち、前にのめる気持ちもなくなります。
これは先日終わったお祭りの、山車が、いつまでも「ドーン、ドーン」と音をさせながら、変化なく進んでゆく感じ。意味がない……そしてどこかへ到達したくならない。
————むりにエレベーター呼吸ををしましょうという指示もないこの5分間は
いつでもできる。音楽を追うのではない、何も追わない、全細胞での受容です。
寝てしまいそう、と思いましたが、音に耳を吸わせていると、ふしぎなアラート感もありました。
何度も救急車のピーポー音が聞こえてくるのですが、不安や呼びかけではなく、ただ、「音」として聞こえます……



