4月も半ばになり、人間関係では特に小学生の中学年以上が、顕著に同級生との差が開いてきていて、精神的な、また療育的なフォローが必要になってきています。今回はその話を中心に書いていきます。
小学生の人間関係で「なんとかやっていける」時代は、低学年の1年生、2年生かなと思います。同級生も幼稚園、保育園あがりで小学校に慣れておらず、同じように未熟な点をたくさん抱えている時期なので、発達面で凸凹がある親族の子がまぎれていても凸部分で補えている時期でもあります。
そして雲行きが怪しくなってくるのが、明らかに3年生、4年生です。
この時期、クラスを見渡すと分かると思いますが、幼さが残っている子も数人いますが、平均してしっかりしてきており、そしてすでに中学生になれるんじゃないかというはっきりとした意志力や自立性、リーダーシップを持つ抜きんでた子がぐんと増えています。
その幼い子と、抜きんでた子の差が顕著なのがこの3年生、4年生という時期のため、クラス内は混沌としています。
クラス内の個々の子供たちは、お互いの違いや差が開いている部分を、毎日学習面や人付き合いの面でひしひしと感じ、プライドを守るために自分の凸面、得意な面をできるだけ強調し、周囲の子に認めてもらおうと他人からの評価を自信にして、それをお守り代わりに、自分の苦手面に目をつぶるようなバランスを取っています。
人よりぐんと先に伸びた子は、クラス全体を見渡してクールに対応する子もいれば、クラスにできるだけ所属しないように距離感を持とうとする子も出てきます。「自分はこの集団とは合わない」と、自己判断するようになり、優れた子は他者の手助けを必要とせず、優れたもの同士でグループでいれば、特に何も困ることなく過ごせます。
このどちらにも所属できず、一人、自分というものを扱い損ねてふらふらしたり、わーわーパニックしたり、皆に置いていかれているという意識がどこかであり「みんなと一緒がいい!」と言い張って周囲の子達を自分の中に引き留めようと無駄な抵抗をするのも、私たちの親族の子のようなタイプです。
逆に言うと、周囲の子達の目をひくような「個としての自分」を出せるわけでもなく、むしろ困っている場面や、弱い部分、依存している部分やカーッときて当り散らすような部分が目立ってしまうので、周囲から魅力的と思われず、必要とされないばかりか、どちらかというと疎まれる、という傾向がどんどん強まっていく時期となります。
これが「同じ年齢」「同級生」という枠でくくられることの怖さであり、成長著しい子達の中に私たちの発達面が遅れている子を放り込むことの怖さでもあります。
こうした中で、親族の子達が
「疎外感」
「周囲から疎まれている」
「なぜかわからないけど輪に入れない」
と感じはじめ、それを気に病み始めているというのは、少し突っ込んで会話刺激してみるとキーワードからすぐに状況が読めることがあります。
例えば、
「今日は○○ちゃんは、学校で先生以外の人と話した?」と聞くと、話さなかった・・・とか、話しかけたけど、聞いてなかったみたい、他の子達と話してる最中みたいだった、とか他の子との遊びに夢中だったみたい、とか、自分に言い聞かせるような言葉がはしばしで出てくることがあります。
または、
「遊ぼうって声かけたけど、『え~う~ん、今日はちょっとやめとく』って言われた。他の子がおにごっこしてたから『入れて』って言ったら、もう教室に戻るからって、まだ休み時間あるのでおにごっこやめて教室にみんな入っていった。仲良しだと思ってた子に遊ぼうって言ったら、『今日は○○ちゃんと遊ぶから』って私はまた別の日に、って断られた。みんな私とは遊んでくれない」
と、他の子がそれとなく、この子を遠ざけている様子がわかる内容を話します。これは聞きなれたセリフでもあります。毎年、こうした事を言われる親族の子達がいるのです。
私が子供たちから聞いた話は、もちろんその子達の両親も知っています。私たちが大人たちで情報交換して思うのは、この時期がやはり、人間関係というものの存在に親族の子達がぶつかる時期であり、避けられないハードルである、ということです。
どんなに「お友達がほしい」と思っても、人間関係というのは「選ひ、選ばれる」関係です。相手がいて、その相手の意志や好みがありますから、親族の子だけの一方的な片思いや、意志や気持ち、好みで友達ができるというのはありえないわけです。
そしてこの部分では、大人は全く役立たずです。他人の、しかも他のご家族の子供の意志や好みを変えようなんて神様でもなければできるはずもなく、人はみな自由ですから、そこは子供たち自身の毎日の積み重ねが、人間関係に反映していきます。
私たちにできることは、自分たちの親族の子が、自分という存在を「学校のクラスという小さい集団の中」で必要とされなかったからと言って、それが永久に続くわけではないこと、偶然によって出会ったクラスメートと、「たまたま」気が合わなかっただけであり、広い世界には親族のいとこや習い事先のお友達のように、必ず気の合うお友達と出会える時があるのだ、ということを言って聞かせることでしょうか。
「今、友達がいなくて嫌」と言っても、あせっても他人の心はどうにもできません。
そう強く思うのであれば、
「クラスの子達がおしゃべりしている内容を、あなたもよく聞いて、楽しい、面白いと思えるようにあなたも合わせていかないと、あなたがいくら『遊ぼう』ってさそっても、それはあなたの遊びにつきあえ、って言われるだろうと相手は思うから、おしゃべりの内容に興味のないあなたを入れても
おしゃべりをやめないといけない
興味のない、あなたの遊びにつきあわないといけない
何のメリットも感じない
それなら断ろう
って、相手が考えちゃうんだよ。だから、あなたがお友達のおしゃべりの内容に興味があれば、その人に
『何してるの?』って聞いて、おしゃべりに参加するところからはじめないと。そうしてお互い、共通点を持って、毎日、毎日共通点がたくさんあることを感じたら、その子達と自然と一緒にあれしよう、これしよう、って遊ぶことができるようになるよ」
「いきなりあなたに『遊ぼう!』って言われても、何の接点もない、好きなことも違う、おしゃべりもあんまりじっくりしたことない、っていうのはただの知り合い程度だから、遊ばないって断られても仕方ないの。
幼稚園とは違って、小学校はお友達を『選んで作る』ことが許される場所だから、嫌いな子でも、苦手な子でも、みんな仲良く遊びましょう、とは一応言うけど、先生も強制はしないよ。それだけ小学生は自由を与えられているってこと。自由を与えられているから、自力で友達を探していかないといけない。あなたはその『自分で自分に合う友達を探す』作業がとても苦手なだけ」
という風に、毎回、毎回私たちは悩める親族の子達に言い聞かせます。
子供たちの「相手の中身に興味を抱かない」という特性はなかなか変えることができません。ですが、将来的には変えていくことができます。その種は、今のこの大事な中学年~高学年の時期に、こうした話の中で、
「自分以外の他の子が、どうして仲良くなったのだろう」
「自分以外の他の子は、どうしてこんなに自然とグループになるの」
「なぜ私は、僕は、その中に入れてもらえないんだろう」
と実感している時であるからこそ、種としてその子の中に入り込みます。ひしひしと、自分の何か「足らない部分」に不安を覚え、そのせいで日々の友達付き合いに困っているという状況はとても苦しいのです。
その苦しさを無駄にしてはならない、というのが私たちの考えです。苦しく悲しいままの記憶ですませるのではなく、その経験から将来に役立つ内容を取り出して、子供たちに種としてかえしてやらなければなりません。
一番悩んでいる時、苦しいときは聞こうとせず抵抗することもあります。ですが、比較的落ち着いている時に、必ず知識として知らせるようにしています。
親族の子達は、自分でそれなりにお友達がほしくてあがきます。自分なりにいろいろやってみて、そして失敗し、辛く悲しい思いをします。そしてある時、自分はもうだめなんだ、無駄なことをしている、と思う時が来ます。
悪いあきらめと思いますが、これを良いあきらめに変えていくには、やはりこの子達が「自分と他の子との差異」を自覚しそれを受容しないと、なかなか一歩が伸びません。
親でも、子供の障害を目の前で見て感じても、それを本当の意味で受容できるかというと、長い年月をかけて受け入れていくのではないでしょうか。それと同じ事を、子供は人間関係の中で人との違いの自覚を、自分自身にしていくのです。
とてつもない精神的打撃を受けます。自信を失います。ですが、その自信を失う時に、子供は盲目であり、広い世界を知りません。
「あなたが失った自信は、(例えば)3年1組という数十人の人間との間で起こっただけの事。外の1億人の人間とは、まったく関係ない。あなたの将来の友達は、外の1億人の中にいる。その一人が、おばちゃんであり、いとこであり、習い事先のお友達でしょう?」
と、閉じて悲しんでいるその子の意識を広げていかないといけません。自閉の特徴は、思いこむこと、自分で思い込んだ世界を「すべての世界である」と錯覚するところにあります。ですが思い込みは視野が狭く、外の世界を知らないか、見えていないから思いこめるのであり、自分の思い込みに絶対的な確信を持っていて
「自分はもう、絶対だれからも好かれない!」
「自分はもう、絶対友達なんかできない!」
というセリフが言えるのです。
その絶対的な自信のもとである「思い込み」に、大人が広い世界を示すために、現実の「事実」をもとに話をして風穴を開けていくことで、子供は自分の思い込みに「絶対」である自信を失い、違うかも、そうかも、大人が言うようなことになるかも、と自分の思い込み以外の未来、希望を信じ始めます。
親に好かれている、大好きといつも言われている
兄弟は好きだと慕ってくれる、遊んでくれる
いとこが遊ぼうとさそってくれる、自分がさそっても嫌がらない
習い事先では普通に話せる子もいる
家庭教師のお兄さんは、自分もそんな子だったよって言ってた・・・
など、「事実」からなら、自閉の子は学んでいくことができます。
私たちは、クラス内で子供が感じている今の辛さを短期的にどうこうすることはできません。せいぜい、精神的に疲弊してしまう前に避難場所である支援級に安らげる場所を確保するとか、学校を抜けてフリースクールを見学し、「おいでよ」とその学び場にいる子達に声をかけてもらって絶望から希望を持てるような出会いをゲットするチャンスを与えたりする対処法がせいぜいです。
ですが長期的には、こうした対処法をしながら、「あなたはあなたが無理をして相手に合わせ過ぎなくても、自分ができる・頑張れる妥協点でお友達を見つけることだってできる」と、その子にあった気質のグループを外で見つけてやったり、活動の場を探してやったり、学校の校風を選んでやることで
「本当だ。自分と似た子がいる。なんか必死にならなくても普通に付き合える」
と言える日を迎えることが目標です。そこに到達したなら、もう大人になっても一人でやっていけるからです。自閉していた「目」が、事実をふまえ、経験を踏まえ、現実社会での体験でどんどん開いていきます。一度開いた目は、やすやすと閉じません。記憶はしっかりと記憶として保持していく能力がある程度あるからです。
今の辛さを短期的な対処で和らげながら、近い未来に自分にも合う友達がいる・できた、という経験をするように、私たちは細工をする、陰で支える、ということに注力をしようと思って今もまた実行しています。
そして、今までそうやって辛い中をガス抜きしつつ、他の場所に活動の場を求め、外へ、外へと意識を開いてきた結果、今の親族の大人たちのように少なくても、気心の知れた友人がいて、いろんな話ができる相手がいて、結婚もして、子供もいて、その子供に自分の経験を生かして付き合えているのですから、将来は「一時の苦しさ」だけで終わることはないのです。
必ず、してきたことには意味があり結果がいつか出て、幸せを感じる時がくると思います。何もしなければ何も生まれませんが、何かしたことについては、何らかの結果が出るものだと、私たちは自分たちの人生を根拠にそう思います。そしてそれを子供たちに教えています。
4月から5月は小学生には大変な時期ですが、今にとらわれることなく、子供さん自身の将来は、少しずつ、少しずつ、変えていくことはできます。それを信じて、親子で悲観することなく心の平安を得られる時を目指してみてください。
そしてどうにもならないときは、辛い事からいったん降りたり、肩の荷を下ろして、違う場所ではじめてみるなど、「見切り」も付けるようにしてみてください。