今回は「心の多弁」の問題点を探ります。
幸せは無からもやってくる・・・ということを、ある程度感じている親族達との会話の中で見つけ出した、子どもを導くときのヒントの一つになっています。
常に「自分の中で」喋っている状態を、無心にすることで得ることもある、ということです。これがどれだけ、自閉の子やアスペルガーの子、発達障害の子には「日常的には」難しいか、予想できるでしょうか。
私達の親の世代が気が付いて、私達がその恩恵にあずかった事の一つが、この「心の多弁」に気が付くこと、その心の多弁が、自分を極度に疲労させたり、心身のバランスを崩す原因になっているということを理解することでした。そして、心が多弁になっている時こそ、無心となる行動を取り、シーソーで例えると「均衡になる」ようにバランスを取ろうという事でした。
定型の人は、愚痴や不満、不安や様々な考えを「長期間、持続しないで、終わらせて次に行く」切り替えの良さを持っていたり、「ネガティブで後ろ向きな考えを前向きなものにするように努めて、心身が暗く沈まないようにしている」傾向があるのだそうです。
ですが、私達一族は、言葉を発する、話す、会話するという点では物静かであったり、自閉傾向の強い者などはあえて他人と話そうとはしません。自分一人で独り言を言う人間はいます。ですが、そんな人間でも心の中ではとても多弁です。
これがどういうことか、は、定型の人と非定型(発達障害がある者)を比較しないとわからないことでした。そして、私達はやすやすと、特に子ども時代は自然体で一日中、こんな風でいられます。
心の中で:
・ 何かについて、常に愚痴を言う
・ 関わる物事について、常に批判、文句、否定、後ろむきな感想を持つ
・ やりたいことについて強い引力を感じ、それができないと反動で強烈な反発を発する
・ 退屈、面倒くさい、やりたくない、など動きたくない気持ちの奔流がある
・ 好きな事に没頭しながら「そうそう」「これだ!」という自己満足を連発する
・ 色んな事を正当化したり、理論的に納得しようとしたり考えを巡らせる
・ 嫌な感覚、好きになれない人、しゃくにさわる人、気に食わない音、人、事象に反応する
これらすべてのことを、心の中に浮かべて、自分では明確に「心の中でしゃべっている」とか「心の中で独り言を言っている」とか「心の中で考えを巡らせている」という感覚はないものの、1日のかなり長い時間、気が付けば「自分の考えに囚われている」状態で過ごしていることは多くなります。それが毎日です。
これを、私達は「心の多弁」と表現し、成長する間の心の多弁の継続は、必ずしも自然の流れに任せていて良い方向になる事は少ないのだ、ということも合わせて子ども達に伝えて行っています。発達障害の人が、大勢の人から見て一見無口に見えようと、その人は心の中で上に挙げたような内容をさまざまに、そして次々と心の中に常に浮かべていたりしますし、本人はそうしていることに気づいていないことも多いです。「気持ちを把握するのが難しい」ということは、この心の多弁で気持ちの奔流が猛烈すぎて、まとめきれないからなのかもしれない、と最近思います。
ADHD気味の親族は、物言わぬ発達障害の人間と同じ程度に多弁であり、それが「心の中で多弁」なのか、「実際に口が忙しく多弁」なのかの違いであるだけで、どちらも似たり寄ったりな気がします。
よく言葉が出ない乳幼児のことがわからない、癇癪が多い、泣き叫びや蹴ったり噛んだりが激しいと親を含む保育者の方から相談されることは多いです。これは、その乳幼児が心の中では多弁な状態であるにも関わらず、現実世界ではその不平不満、欲求、感想の一つも周囲の他人に伝わることもなく、言葉というツールでは全く伝えられないことから来るのだろうと、改めて思います。心の多弁と外界での沈黙(時に緘黙)のギャップが理解でき辛いのでしょう。
私は幼稚園、小学校という環境では全く言葉を発しない完全な場面緘黙の子でしたが、家では多弁であったことからもわかるように(それでも親しくない親族や家に来た初対面の人には話しませんでした)私は心の中で常に「何かを考えて心の中では気持ちをダダ漏れにしている」状態でした。兄弟はしゃべりまくる多動系でしたが、同じ程度には色々感じて愚痴も不満も反抗的な考えも、賛同も、色々と思いめぐらせていたように思います。
そして、親族の子達や自分の子達と接してきて思うのは、こうした「心の多弁」状態の中で、その子独自の論理や思い、感想に肉付けをしていくような感じで、保育者が「しつけ」をしたり、「一つ一つ、納得できるように説明して社会生活の物事を伝えていく」ことで、子どもの心の中で多弁の奔流が整理され、落ち着いていき、結果的に心身が安定していくのだと思います。
発達障害は、二次障害としてうつ病や心身症を患う事が多いのですが、この心の多弁がネガティブ系でありかつ奔流というぐらい毎日、日々怒涛の思いの中で過ごすので、心を病む状態、心身をむしばむ状態にその人自身を浸食していくのではと思います。過ぎた心の多弁は、心身を疲労させ、無気力にしてしまったり、不安に囚われ錯乱してしまったり、怒りに囚われて我を失っていく結果になることもあります。
さて、ここで心身の安定について向き合います。
私達一族は、農作業と共に生きてきました。例え他に会社勤務や在宅などの仕事をしていても、農作業はまた別に必ずしています。その農作業から学んだことが、一族の心身の安定と安泰につながったと言っても過言ではありません。
身体を動かす、ということは、あまり発達障害の人の「治療的」処置としては聞きませんが、1日中体を動かして、適度な疲労感を感じるぐらいの長時間の運動活動は、この「心の多弁」という爆弾にもなるような障害特性を抱えた人には、一番の薬になるとさえ思っています。
不登校をしたての親族の子達は、不登校の初期は心を病んでいる状態であり、再起不能になるんじゃないかと思えるぐらい意気消沈したり無気力になる子も多々います。そういう子達は、心身の回復を優先させて勉強は後回しとなりますが、ただ寝ていればいい、通院すればいいという見守り方はしていません。太陽の下で、農作業を手伝うことで「学校へ行かず、勉強もしないこと」への条件になります。(勉強する気力が出た子は農作業は条件になりません)
例えば、山登りをする人や、長距離でマラソンをした人は理解ができると思いますが、全身を長時間使い、ある程度疲労を感じるまで体を使役すると、頭の方に変化があります。発達障害の親族が良く言うのは「頭の中の靄が晴れてスッキリする」とか、「頭が使いやすくなった」とか、行動が思うようにできるようになる、とか、「自分の頭や体をいつもの状態よりも、使いやすくなる」とか、「直後の数時間はよく落ち着いて人の話を聞くことができる」とか、そんな感想が多いです。
お医者様から投薬されていて、薬が効き始めた時に、こんな感覚を感じませんか?それを私達は、長時間の農作業の後で感じることが多いです。そしてこの感覚は、自分にとって「覚醒した」ように自分をリセットしたり、取り戻すことができるので癖になります。そのため、無理に強いることなく、不登校の子達も「心地よいリセット、頭のスッキリ感」を経験すると、自分からもう一度その感覚を得ようと農作業に参加するようになります。
農作業以外にも、定番なのが「山頂の神社に参拝に行く」ことが親族中の習わしです。この夏も、親族の子達数人を連れて山を登りました。家から山頂まで、2時間ぐらいでしょうか。全くの山道なので途中で虫を発見したり、イタチと出会ったり、お地蔵さんにお水やお花を供えたりと、地味に自然の中に入って行きます。だんだんと無口になり、ただ神社へ行く道の中、身体の疲労とは逆に、精神的に疲労から回復していくような「心の疲れ」が取れていきます。山頂のこれまた地味な地元の神社にご挨拶して、おにぎりを食べ、水分を取り、山を下りる復路では「来た時とは違う」感じがします。
子ども達にも神社を目指しての山登りは、とても評判がいいです。ただの山登りだと目的がはっきりしないのか、「えー・・・」という反応ですが、「お地蔵さんのお供えを換えに行こう」「神社にお参りに行こう」という誘い方だと、ツキが落ちてるから、とか、そろそろ願い事しておきたい、とかいう現金な理由で着いてきます。
この辺りは農業の地域なので、五穀豊穣を願う小さな社なのですが、人から大事にされていると思います。子ども達も、私同様に子どもの頃からその「特別な場所」を感じ、頭をスッキリしてくれた経験から、神社は自分を取り戻す安定のシンボルとなり、ある意味支えにしている部分もあるのかもしれません。頭がスッキリするとか、いつもより何かがやりやすい、上手くいく気がする、という感想は少なくとも1週間ぐらいは持続していて、その後もそのまま良い方向性で日常生活を送れている気がします。
長くなりましたが、私達が体感している事そのままに、伝えられたらいいなと思います。日常生活で悩んだりあれこれと取り組んでいるだけでは得られない、がっつりとした「体感できる」発達障害の特性あれこれからの一歩前進の方法です。自分の心の奔流に流され濁流に巻き込まれている怒涛の日常から「自分を取り戻す」ことができる、安定した精神状態が思い出せる一瞬を得られる取り組みです。
「なんだ、そんなこと」
「つまらない。その場しのぎ」
「気のせい」
と思うかもしれませんが(自分も子ども達も最初はそう思っていたので)、全身にほどよい疲労を感じるほど一日農作業をしたり、山道で枝を土を踏み、澄んだ空気を吸い込み、草木の臭いや存在を感じ、せせらぎに清涼感を感じ、動かなくなってきた足を持ち上げて「もう無理」と思う先の社で静寂を感じ、「帰りは楽」と「登れた」という事実を持ち帰る帰路を経験するのは、全身を感覚にしてマイナスにはならない、プラスになる物が得られるように思います。
悩める子ほど「農作業しろ」とか「山へ行って来い」という習慣が親族達の中にあるのも、こうした個々の経験からでしょう。身体と頭、心は確かにつながっていると思いますので、にっちもさっちもいかなくなった発達障害の子供や、保護者の方にも、トンネルから抜ける精神的な「開き」の一つとして、ぜひおすすめしたいと思います。
*注意: 「回復・改善」的な内容ですが、忘れっぽい、片付けが難しい、発語がない、多動だ、などの障害特性が治るという話ではありません。無気力がリセットされて「まあ、ぼちぼちやるかな」という風になったり
、「何をあんなに腹を立ててたかな」と前よりも心が凪いだり、というような変化があるということです。