「舟を編む」からの日本語愛が泉のように湧き出て止まらなくなっています。





そうだった、わたしは日本語が好きで好きでたまらなくて、それで国語の先生になるっていうのに大学の専攻は国語学だったんだったとか(普通、教員目指すなら文学を専攻します。実際、採用面接で「なんで国語学とったんですか?」って聞かれたしwww)、短歌づくりに没頭するシブい高校時代だったとか、いろんなことがよみがえってきました。
 
 
卒論のテーマは「平安女流日記文学の語彙研究」で、女性たちが心情をつづる時の情意語(感情を表す言葉)のことを研究したんでした。
日本語は、四季を表現する細やかな言葉があり、そうした言葉と糸を紡いでいくように情意語の世界が広がっています。
例えば、私たちは「時雨」と聞けばそこはかとないさみしさを思い浮かべるし、「五月雨」と聞くと降り続く雨の中の憂鬱さを感じたりします。
同時に、ひらがなとカタカナと漢字という3つの種類の文字を使い分けることで、読み手と世界観を共有していくこともできるわけです。
先ほどの「憂鬱」が「ゆううつ」になるだけで、心の底に広がる薄暗い闇を感じたりするわけです。


卒論では、平安時代と鎌倉時代と女流日記を比べたのですが、情意語とともにひらがなの使用率も平安時代の方が圧倒的に多いことが分かりました。…といっても20年も前のしがない学部生の統計範囲なので精緻に欠くとは思いますが、感覚的には今でもそうだろうと思っています。
長きにわたる安定した時代の文化の中で綴られる日記と、戦国の世に向かう鎌倉の時代の日記で、同じ女性の日記でありながらひらがなよりも漢字が使われ、情意語よりも記録的な語彙(日にちや場所、人物名)が増えていく。

感情を味わうことができる時代というのは、平安の世の証なのかもしれないですね。
 
 
日本語の繊細さと美しさを感じる感性というものは、五感に触れる感性なのでしょう。
四季の小さな変化を、肌で、耳で、目で感じ、味わう。そこから生まれでる表現が日本語の繊細さになっていく。
そう考えると、なぜ日本語には情意語が豊富なのかが分かるように思います。

 
 
そして、そう思ったときに、わたしの紙の本への愛は日本人の感性の象徴だと気づいたのです。
一冊一冊の本の手触り、質感、重量感、香り、ページを繰るときの紙のこすれるささやかな音、読書という営みに内包される五感の心地よさをこよなく愛してやまないのは、わたしが日本人だからなのだと思ったのです。 
 
 
「舟を編む」の中に(ネタばれごめんなさい!)、辞書に使う紙に対して何度もダメ出しするシーンがありました。
そうなのです、ほんの些細な感触によって本への入り具合が違ったりするのです。あの出版社の本がいいなってなったりするのです。まぁ変態ですね、ここまでくると(;'∀')
 
 
あぁーーー浮かんだ言葉が消えて言ってしまった…
何言いたかったんだっけ。。。
 
 
 
日本語愛が再燃したら、綴らずにはいられない衝動に駆られてしまいました。
なんとなく小さな世界の中で閉じこもっていたのだけれど、あふれてしまうほどの情熱があったことがうれしくて、世界にそれを伝えたくて、もう遠慮はしないって決めたから、あふれるままに垂れ流してまいります(最後だけ表現が…www)。


箱根からの本との時間が、わたしをよみがえらせてくれました。

あーーーーーーーーしあわせだーーーーーーーー!!
 


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