久しぶりに井の頭線に乗った。

実家にいたときは沿線に住んでいたから
大学を卒業して埼玉でひとり暮らしを始めるまで
ヘビーユーザーだったけれど、

世田谷に戻ったといえど
沿線でなければ乗る機会も少ない。


だからどうしても
たまに乗ると学生時代の感覚に引き戻される。



そんな感覚で井の頭線に乗って面食らった。


電車に乗らないわけではない。


週に何度かは電車で仕事に行くし、
週末には家族で電車に乗ることもある。



けれど、井の頭線は別なのである。


すなわち
20年前のイメージのまま乗車するから。





何に面食らったのか。


肩を寄せ合うように貼りつけられた広告

頭上に垂れ下がる中吊り

トレーダーかというような二面液晶広告
 (正確には路線案内含めて三面だが)




目を向ける先はどこもかしこも
広告の文字と写真とイラストで埋め尽くされている。



20年前の井の頭線だって広告は貼られていたけれど
こんなに騒々しかっただろうか。



もちろん、
小田急線もJRも同じような様相ではあるのだけど


記憶の中の井の頭線とのギャップに面食らってしまうのだ。



外に目をやれば
隙間なく連なる屋根の波


時刻表は余白を残すまいと
列車の運行スケジュールを刻みつけ


車内はラッシュアワーをとうにすぎたというのに

身動きとれぬほどの混雑ぶり


どこを見回しても余白などどこにもない




いつから日本人は余白を埋めるようになったのだろう。




空の外に広がる屋根の波をぼんやり眺めながら思った。




はるか昔、和歌という芸術を確立した日本人は
その言外に宿る余韻をたのしんだではないか。



枯山水に自然の悠大さを内包させて

空間を自在に広げたではないか。




表現の名を借りた文字や写真の洪水で

あらゆる余白を奪っていったのはいつからだ。


地を埋めつくして、
もはや上にしか伸びゆけないビル群を前に思う。





黒船がやってきて日本が世界を知ったとき、
列強諸国に追いつき追いこせと外に目を向けて
富国強兵で国土を拡大せよと背伸びをした時、



日本から余白が失われていった。



余すところなく国力を上げるために力を注いで
拡大はやがて戦争を引き起こした。


国破れて山河あり
城春にして草木深し




日本は余白を取り戻すことができたはずなのに
そこから再び成長と拡大の時代を迎える。




人口が増え、家が増え、ものが増えた。





増え続ける人口を収納すべく
隅の隅まで工夫をこらした狭小住宅を所狭しと並べ
その家の中もきっちりとものがはめ込まれた。



そうやって生きる工夫が凝らされていくことで
日本は敗戦から復興して立ち直っていった。





そして今、ふくらみ続けた成長は

これでもかと腹をふくらませたカエルよろしくはじけとんだ。




人口は減少の一途をたどり、

地方のみならず都市部も空き家だらけ。




持たない暮らしがはやり、縮小の時代が始まった。



今こそ、日本人の余白を取り戻す時ではないか。




余白の中にうまれる無限の広がりに
酔いしれる時がやってきた。



小さくすることを、
少なくすることを、

恐れずにやっていく時代が来たのだ。



マイナスによって広がる余白を楽しむことが
豊かさにつながる。


そんな時代がやってきた。