本当にあった話を元にしたフィクションです。
訪問介護ヘルパーを始めて間もないころ
「脳性麻痺の高校生のお嬢さんのお宅へ
入ってもらえませんか?
私が退職するので引き継げる人を探しているのです」
とサービス提供責任者からお仕事の依頼がありました
当時の私は、心底、その介助にあたる自信がありませんでした
ですから即答できず返事を保留しました
できる
できない
やる
やらない
さぁ、どうする?
相当悩んだと思います
…
数日後「受けさせてください」
と返事をしていた自分に、私自身が一番驚いていました
あれれ…私大丈夫か?
ご両親、二人の弟さんとの5人家族のまき子さんは
当時16才で、特別支援学校へ通われていました。
日常の介助はお母さまが行い、ヘルパーは通学前のモーニングケアと車椅子までの移動を任されていました
余談となりますが、まき子さんは6歳の頃から
我事業所の利用者さんだったそうです
お母さまが弟二人を保育園に連れて行く間、見守りがてらモーニングケアを行っていたそうで、
私に依頼がきたのは大分成長されてから、ということになります。
事業所としてのお付き合いはとても長く、まきちゃんと呼ばれていました。
さて、まき子さんは基本的にはベット仰臥で生活されています
目は開眼されていますが、見えていません。
耳は敏感で大きな物音や声に驚かれるため、物音を立てないよう、優しい声で語りかけ、恐怖感から呼吸が荒くなってしまわないように配慮してのケアでした。
訪問はオムツ交換から始まります。陰部洗浄、全着替え、腰回りにコルセットを巻く、専用の椅子に移動し、口腔ケア、顔の清拭、髪を結ぶ(個人的には一番難しかったかも💦)、手浴、足浴、吸入補助、足に装具をつける(移動時、万が一、足をどこかにぶつけてしまった際、骨折しないようにするため)
時間が来たら、抱き抱え、屋外の階段を9段おり、車椅子に座っていただく
という内容でした
帰宅時は、パジャマに着替えて、就寝できるところまで介助させていただきました
基本的に、月曜日から金曜日までの朝夕を、数人のヘルパーで訪問しておりました
私が関わらせていただいた約9年の間に、当初、中学生だった弟さんも、高校生になり、大学生になり、社会人になり、ご家族の成長も喜ばしいことでした。もちろん、お仕事で伺っているわけですから、線引きはあるけれども、ご家族の方々にはとても良くしていただいていました。
主介護者のお母さまとも、子供の話や親の話、夫の愚痴、テレビの話などをしながら、同じ空間でリラックスしながらの介助、良い関係性が築けていたと思います。
さて、まき子さんですが、成長とともに体の湾曲がすすみ、副鼻腔経管栄養が内臓まで届くのに時間がかかるようになりました。
そして、ご両親による決断で胃瘻を増設することになりました。
胃瘻増設手術の日、恐怖に耐えられなくなってしまったまき子さん、一旦心停止となってしまい、急遽気管切開することで、一命をとりとめました。
お母さまは、胃瘻増設に踏み切った自分の決断が正しかったのか?自分を責めておられ、その様子を見るにつけこちらまで胸が締め付けられる思いでした。
ご家族の思いが伝わったのか?
まき子さんは、一年ほどの入院を経て、ご自宅へ戻ることができました。腹水や浮腫などが中々ひかず、お母さまも自分を責めていたようですが、以前からお世話になっている、訪問看護さん、訪問入浴さん、訪問医の力を借りながら、元の生活に戻すために努力されていました。
社会経験を積んで欲しいとの思いから、通所への復活を目標とされていました。
その目標が達成された時には、私も我が事のように嬉しかったです。
私たちヘルパーも、まき子さんの身体に合わせた介助を看護師さんから教えていただき、徐々に慣れていきました。
退院後の介助は、ヘルパー二人体制となり、そこにお母さまも加わり、6本の手でお世話をしていました。役割分担や呼吸感が合ったときは最高の気分、やり甲斐も得られました。
気管切開部からのたん吸引は、お母さまのお仕事ですが、お母さん、看護師さんなの?とも思えるくらいの見事な腕前でしたので尊敬の念がわきました。
胃瘻でのお食事時は、人工呼吸器を装着しての食事となり、在宅酸素も適宜使用されました。
災害時の停電に備え、発電機も購入されました。
まき子さんの介助では、その空間にいられることや、身体に触れさせていただけることが尊くて、感謝しかありませんでした。
ただし、ヘルパーの配置は、誰でも良いという訳には行かず、伺えるヘルパーが充分ではなく、かなり苦労しました。
(その頃は週3回、朝夕、二人体制)
私は絶対休めない、休まない、体調を崩さない、と必死ではありましたが…
一回だけコロナ感染で休みました。まき子さんに移さなくて良かった〜。
大変だったのは、ヘルパーの配置面のみで、介助自体は、本当に勉強になり、まき子さんが笑顔を見せてくださったり、怒った顔をされたり、時にはため息をつかれたり笑、発語もされないし、目線が会うこともないのですが、コミュニケーションを取れている感覚があり、「もし、今、お話しできるとしたら、どんな言葉を発するのかしら?」
「おばさんたち、いつも同じ話ばっかりしてー」とか、「それ、わかる〜」とか、「早くしてよ〜」とか、「あたしカワイイでしょ」とかなのかなぁ〜と想像しては、ニヤニヤしていました。
現に、私たち3人の会話に「クスっ」と吹き出すように笑われた事があって、まき子さんも仲間に入っているんだぁ〜四人の女子会だね〜なんて声をかけて、あーなんか楽しいな〜と幸せな気分になる事もありました。何より愛おしいのですよ。
まき子さんとのお別れ、それは突然やってきました。あの時の動悸、頭を叩かれたような衝撃は今でも忘れません。
お別れのキッカケは、お母さまの体調不良でした。お母さまは私よりも5歳くらいお若い方です。痙攣からの救急搬送、脳腫瘍の発覚、入院、手術と、事は次々と進み、主介護者を失ったまき子さんは、施設に入所することになりました。
私も突然のことに、涙は出るし、しばらく落ち込み、何でこんなことになるのだろう…と放心状態となりました。
私の兄の家族も、次男が障害者、妻が血液の難病で一時は余命宣告されたこともあり、その時の思いが、余計、私を感傷的にさせたのかも知れません。
まき子さんとのお別れから、二年近くが経ち、まき子さんとの思い出は、ようやく過去のものとなりました。
冷静になった今、思うのは、
右も左も分からなかったあの頃、
私を受け入れて下さったことへの感謝と、
私を育てて下さったことへの感謝。
本当に、良い出会い、良い経験、良い思いをさせていただきました。
まき子さんと、ご家族に出会えたわたしは幸せです。
「この経験は私の宝物だ」と胸を張って言えます。
ありがとうございました。と直接は言えないけれど、またどこかでご縁がありお会いできたら、お礼を申し上げたいと思います。
と書いてるそばから、ウルウルしてる
私のヘルパーとしてのベースを作って下さったのは、まき子さんです。
介助は上手いに越したことはないけど、初めから上手い人なんていないです。
私は未だに自信もないし…
何より大切なのは精神面(相手を思いやる接し方や取り組み方)なのではないかと思います。
「誠実に」という気持ちは私にとって一生の宝物となるでしょう。
いつか書きたいと思っていたのですが、中々取り組めず、やっと書くことができました。
たまたま、ある方のブログを拝見し、言語化できずにいた気持ちの正体が、一瞬にして腑に落ちました。
その方にも心より感謝申し上げます。
突然の長文にお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
【補足】
まき子さん宅への最初の依頼は
区役所の福祉高齢支援課からで、まき子さんはお若いので、障害者枠での訪問です。訪問する内容や時間数などをおおよそで指定された上、依頼が来ます。更新のたび、役所が間に入り、サービス量が適正か?話し合いがあり、更新となりました。
10年くらい前からは、介護保険で言うところのケアマネジャーのような役割をする方「相談員」を付けられるようになり、私がサービス提供責任者になってからは、相談員さんと、内容や時間の相談をし、相談員さんが役所に時間数の交渉していました。
まき子さんは、月に身体介護50時間くらいでした。