「手になにもない原告」が背負う理不尽の構造
医療裁判に挑んで痛感したのは、原告に課せられる証明の重さと制度としての理不尽さでした。
医療事故で愛する存在を失った側が、悲しみに耐えながら、専門的な医学知識と法的知識を総動員して証拠を集め、裁判官にこの医療行為は違法だったと証明しなければならない。しかも、その証明の基準は80%以上の蓋然性が必要です。
この「80%」とは何でしょうか?
裁判官がたしかに、その過失が原因で死亡した可能性が80%以上あると感じたときに、責任が認められるのです。
しかし、現実にはこの80%を数値で示せる方法は存在しません。
医療記録やカルテに記載されていない見えない判断や、こうしていれば助かったかもしれないという可能性に対して、裁判所は冷たく扉を閉ざします。
そのため、医療のプロである被告側には圧倒的な優位性があります。カルテも、記録も、すべて被告の管理下にあり、都合の悪いことは記録しない、あるいは書き換えることすら不可能ではない構造です。
一方、原告側には何もありません。事故の原因も、当時の状況も、全部相手の出す資料でしか分からないのです。
本来であれば、加害が疑われる側こそ、この行為は適切であり、法的責任はないと証明すべきではないでしょうか? しかし、日本の民事裁判では、原告が何も持たずに立証責任を負わされます。
さらに理不尽なのは、医療側が説明義務を怠ったことに対しても、それが死亡に繋がったと蓋然性で結ばれない限り、裁判所は見向きもしません。感情や納得の問題ではなく、それが直接的な原因ではないのでは?と遮断されてしまうのです。さらに理不尽なのは、その蓋然性を図るの医学論文や獣医療ガイドラインでもなく、一担当裁判官の心証なのです。
そこに加えて、裁判官が医療をどこまで理解しているのか」という疑問も残ります。実際に私の事件では、提出した専門的な論文、ガイドライン、医師や獣医師の意見書があっても、裁判官の心証には届きませんでした。
裁判所には科学に基づく検証機関もありません。あるのは、裁判官が、自らの印象や経験を元に、命の重さを裁いているという現実です。
このように、医療裁判とは医学や科学とは程遠い、見えない壁との戦いです。
裁判所は科学の場ではなく、印象と空気で結論が左右される世界。
そしてその不合理のツケを払うのは、命を失った側の家族です。
もしこの記事を読んでいるあなたが、医療裁判を考えているなら、まず「これは科学的な判断の場ではない」という前提に立って、冷静に判断してほしいと思います。
正義や真実は、残念ながら、日本の裁判所では最後まで報われないことがたったにあるのです。
