大変、久しぶりのレポートになります。
毎度のことながら、気まぐれ配信のレポートですので、ご容赦を。
本題に入る前に・・・。
FP的視点で世界を見ても、あるいは日常の生活の中でも、多くの出来事が起こりますが、その中でも多くの「過ち」も起こっているように思います。
例えば、「戦争」や「紛争」などは、大きな「過ち」の代表格とも言えます。
そして、一方は「善」、他方は「悪」という論理が強調され過ぎているように感じます。
「戦争」や「紛争」は、少なくとも多くの人の血が流れている訳で、どちらが「善」でもないと思います。
全体主義的な論調が目立つ中ではありますが、正しく物事を捉えていく必要性は、日々高まってきているように感じます。
個人的には、「歴史」を辿ってみることや、オールドメディアではないソース(特に、現地の声や書籍・レポートなど)から、情報を取ってみるようにしています。
メディアの大半が、ステークホルダーの影響を多分に受けていますので、笑ってしまうほどに恣意的に歪曲した情報が流されている現実に、恐怖すら覚える毎日です。
(戦時中の新聞やラジオなども、こうだったのでしょうね・・・)
さてさて、またイントロが長くなり過ぎました。
本日のテーマに移りたいと思います。
本日のテーマ「改めないのが本当の「過ち」」というお話をしていきたいと思います。
まず、「完全無欠」な人は存在しません。
(※「完全無欠~」と聞いて懐かし~と感じた方は、横浜銀蝿を想像されたかも知れません(笑)が、今回のテーマとは無関係です。)
そして、「理論家」は、理屈ばかりを言うだけで行動が鈍かったり、「行動家」は、考えもせずに行動するきらいがあります。
「倹約家」は、とかくケチになりがちで、「金や権力がある人」は、驕り高ぶりがちです。
「神経質な人」は、極度に神経質になりすぎ、反対に「大雑把な人」は、散らかし放題だったりします。
「愚痴っぽい人」は、何かにつけ愚痴ったりします。
人には、「長所」と「短所」があるのが「常」です。
人の常として、人の短所や過ちばかりに目が行き過ぎてしまいがちです。
心の中に、「人を愛する気持ち」があれば、人の短所の中にも長所を見出し、過ちの中にも教訓を見出すことが出来るはずです。
また、過失は人の免れがたいところですが、過ちを知って改めることが出来れば、そこから自分をさらに磨くきっかけとなるでしょう。
孔子曰く・・・。
「過ちを観て、ここに仁を知る」(短所から人の長所を見出すこと)『論語』
「過ちては即ち改むるに憚(はばか)ること勿(なか)れ」(同)
「過ちて改めざる、是れを過ちという」(同)
孔子が「人に求める」のは、過ちを犯すな!ということではなく、「過ちを犯したらそれを悔い改めよ」ということです。
『「悔いる心」が、深くしてはじめて改めることに勇猛になる』のが、人の道ということなのでしょうか。
相手の状況や気持ちを理解せずに、「感情のままに」自分の意見をぶつけたりしていませんか?
そして、そのことを「悔いている」のに、「改める」ことをしないままでいませんか?
「過ちて改めざる、是れを過ちという」
まさに、この言葉を胸に日々の生活をしていきたいものです。