昨日、久々やってしまいました!!
海老アレルギー!!!![]()
痒くなってきて、大きな発疹が出てくるんです![]()
多分、日曜日に海老ワンタンと海老の卵炒め食べて
この時ぽんくんに、出るんじゃないの!?と忠告を受けたのに><
翌日、そこに追い打ちをかけて、揚げてから2日経った海老カツ食べたせい!?
解凍後時間がたったエビは、結構な確率でアウト(泣)
頭皮、顔、首、背中、お腹と、柔らかい部分が痒すぎる![]()
でも海老は大好物なの![]()
止められないわぁ~![]()
さて、前回の続きです![]()
徳川四天王のひとりである本多忠勝を城主とする、大多喜城の城下町であることから
その痕跡は、城下町の町家をはじめ多く残っている上に、
後世になって新たに築かれたものも多く
ワクワクが止まらない街なんです![]()
城下町通りから少し外れた夷隅川に架かる行徳橋
その橋の欄干にあるのが
大多喜城主 徳川四天王 本多忠勝像
思っていたより小さかった![]()
実際に「鹿角脇立兜(かづのわきだてかぶと)」という、
特徴的な兜を着用していたそうです。
本多忠勝は、57回も戦に参戦し、
かすり傷一つ負わなかったという逸話があり
名将と言われていました。
明るさを求め加工したら、モノクロ写真になっちゃったσ(^_^;)アセアセ...
この近くに、本多忠勝の分骨されたと言われるお墓があるんですが
なにせ、とんかつ屋さんでたっぷりお話ししてしまい![]()
時間がなく、あえなく断念![]()
急いで次の目的地へ~![]()
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大多喜城です。
私たちが行った時は、駐車場が無料でした![]()
復元された大多喜城
「続日本100名城」になっています
最後から二番目の恋みたい(笑)
さらっと歴史をご紹介♪
大多喜城は、1521年に真里谷信清まりやつ のぶきよが築いた「小田喜城」が始まりとされるお城です。
その後、里見氏の家臣・正木氏が支配しましたが、
1590年、小田原征伐のあと徳川家康の重臣・本多忠勝が入城し、
大規模な改築を行いました。これが現在の大多喜城の原型です。
この際に忠勝は城下町も整え、房総を守る重要な拠点として発展させました。
江戸時代には大多喜藩の中心として続きましたが、
明治4年(1871年)に廃城となり、多くの建物が取り壊されました。
現在の天守は、1975年に江戸時代の図面をもとに再建されたもので、
地域の歴史を伝える象徴として親しまれています。
現在は、千葉県立中央博物館大多喜城分館となっていますが、
2021年12月27日から長期休館となっていて、天守内に入ることはできません![]()
周りには桜の木もあって、お花見シーズンはお花見客で賑わうそうです![]()
この日はつぼみはピンク色だったけど
ぽつりぽつりの感じでしたね![]()
廃城時に、天守閣をはじめ取り壊されてしまいましたが、
・大井戸
・二の丸御殿 薬医門
・土塁・堀跡・郭
現存しています。
※写真はお借りしました
薬医門は、天保13年(1842)の火災後に建てられた門で、
大多喜城で唯一残る建造物の遺構です。
現在は大多喜高校の校内に移築されているそうです。
大井戸は大多喜城より見る事が出来ます
よくわからないでしょ!(笑)
これ!!![]()
周囲17m・深さ20mの巨大井戸
本多忠勝の築城時(1590年頃)につくられたと言われています。
こちらも大多喜高校敷地内にあります。
説明看板だけは身近で見る事が出来ました![]()
車で行くことも考えたけど、他に予定があったので端折った(笑)
他にもこんな遺構が
駐車場から、大多喜城天守閣に向かう岩盤に掘られていたもの
こちらは、大多喜水道といって、
時代は明治3(1870)年に作られたもの
城下町の大多喜は、良い飲み水に恵まれない土地でした。
最後の城主である松平氏が、水道工事を具体化し
大多喜城から西へ約2キロある水源から
約5.8キロの水道を作り(内約4キロはトンネル)
城下町200戸
20ヘクタールの水田に潤いを与えたそうです。
大多喜城の御城印もゲット!
いすみ鉄道大多喜駅 駅前の観光協会で購入してください![]()
さて、次の目的地へ![]()
今回は食少なしですね(笑)
続きはまた後ほど![]()














