原田ひ香さんの「アイビー・ハウス」(講談社文庫)

 

  横浜の丘陵地帯の住宅地に建つ二世帯住宅。ツタのからまる外壁。3階建ての瀟洒な一戸建てです。

  住んでいるのは、親世帯、子世帯の家族ではなく、二組の若い夫婦。篠崎家は隆と薫。IT企業のエリートの夫と雑誌編集者の妻の組み合わせ。目黒家は一樹と未世子。一樹は隆の会社で派遣社員として働くエンジニア。未世子は近くのカフェで働いています。4人は結婚前からの付き合い。一樹と未世子は、隆と薫の紹介で知り合いました。どちらの夫婦にも子どもはいません。つくるつもりもないため、この家を購入したのです。売値は2200万円。折半したため、両家の負担は半額の1100万円。この立地では、シェアしているからこそ家が買えたという実情ですが、気心のしれた仲間同士の居心地の良い暮らしです。どちらのカップルも、洗練され、都会的なミニマリストの組み合わせ。おたがいに尊敬し、共感して暮らしており、2週間に一度、片方の家に集まって、夕食会。料理をしないのは、隆ひとりです。

  そんな生活が続いていくかに思われたある日、タクシーで家の前に乗り付けた若い女。OL風。かなりの美人。派手めな化粧が、涙でくずれています。たまたま、在宅していたのは未世子ひとり。未世子は女の素性が見当つきません。女は「篠崎さんの奥さんに会いたい」と繰り返すだけ。

  タクシー代も支払わずに姿を消した女は、何者なのか。

  彼女のことを隆に話したほうがよいのか。

  繊細な一樹は、未世子から女の話を聞いて以来、懊悩します。

  そして、薫と一樹はシェアハウス生活を続けている間に、自分たちの気持ちに、噛みあわない何かが生まれていることに気づきます。今までの幸福な生活。

  それこそ、幻だったのでは・・・・・

 

 

  10年以上前に書かれた文庫書き下ろし。

  原田ひ香さんの作品の中でも、繊細な味わいだと思います。江國香織さんの作品に近いかな、という雰囲気。

  ネットで見る限り、評価はまっぷたつ。

 

  とにかく、誰から見ても「いい男」の隆。「できる男」でもあります。薫は年上の妻。とにかく、今でも隆をみると、ときめいてしまう心を自覚しています。シェアハウスに入居当時、隆は今の多忙な会社を辞めて余裕のある仕事に転職してもよい、という感じでした。薫はそれを「約束」と考えていましたが、今の隆は一向に転職する気持ちがなさそう。

 その薫は、小柄でグラマラス。女性誌の「節約生活」コーナーを担当。取材対象は、薫と同じミニマリスト傾向の一家が多いため、仕事のやりがいは十分です。

 

 未世子は、薫の部下だった女性。ほっそりとした少年のような体つき。教養があり、読書好きですが、小説は一切、読みません。料理が得意で、手間暇かけた煮込み料理をするのが好き。

 

  読んでいるうちに気づきますが、ほとんどが薫と一樹の視点から語られていきます。ふたりには、このシェアハウスの生活を理想としているという共通点があります。

  特に、満足度が高いのは、一樹。大企業でのサラリーマン生活で、適応障害を患った過去があります。派手ではないけれど地味ではない、洗練された未世子は、理想の妻。一樹自身も料理好きで、イタリアンが得意。なので、外食でパスタを食べると、その値段の高さに呆れてしまう。しかし、呆れる自分が誇らしくもあります。そして、この高いレストランを平気で選ぶ隆をみくだす気持ちも、多少、いやじつはかなりあります。

 

  序盤で、実は不穏な雰囲気をはらんでいます。その不穏な感じをもたらしたのは、タクシーの女ではなく、一樹にむけて未世子が穏やかに放っひとこと。

  「角煮は本当は好きじゃないの」

  最初に豚の角煮を作ったとき、未世子が喜んだと思い込んで作り続けていた一樹。

  未世子は薫に対しても同じような対応をすることがあり、読んでいてあからさまに「ざらつく」感じがします。いっぽうで、未世子は、飛ばされてきた小鳥を助けるために、素足で嵐を駆けることのできる優しい女であることも事実。

  

  豚の角煮にバラ肉を使わず、鶏肉は胸肉。それが目黒家の食卓。

  料理をしたことのある人なら、じつは煮込み料理は、時間はかかるけれど難易度は低いということは、すぐに解ると思います。

  思ったのは、このシェアハウスでは、テーブルにスーパーのお惣菜が並ぶことは絶対にないんだろうな、ということ。

 

  薫を打ちのめすのは、取材相手の2人の妻たち。幼い娘とおそろいの、手作りの麻のワンピースを着た若い素敵な妻。もうひとりは、ごちゃごちゃと土産ものをかざり、人前で妻をみくだす夫のかげで、ひたすら黙り込む初老の垢抜けない妻。薫にとって、後者は考えられない夫婦像。初老の夫を軽蔑する気持ちが否定できません。しかし・・・・・・

 いや、これはショックですね。

 

  にしても、不思議なのは、この生活をなぜ、隆は最初は受け入れたのか、ということ。彼の内面は一切、語られないので、推測するしかないのですが。未世子は、まだ解る。

  そして、さらに判明する事実。ここに引っ越してから、隆と薫はセックスレスに近いということ。3階に住む薫は、2階に音が聞こえるのが怖かったのです。

  タクシーの女なんて、実はたわいないこと。とっくに、壊れていたことに、はじめて気づく一樹と薫。隆と未世子が、送っていたサイン。

 

  ホラーではないのに、静かに怖い。

  ガラスのように美しい物語。

 

  鈍感なことは、罪なのか。

 

  容赦なく、

  残酷。