安藤祐介さんの「逃げ出せなかった君へ」(角川書店)

 

   投資用マンションと、家庭用浄水器を売りつける会社ハッピーインベストメントに、かろうじて新卒採用された大友。

   あまりに高い離職率、正社員募集が常時おこなわれていること、会社そのものの「押し売り商法」が問題視されていることから、周囲の友人たちや、両親、親戚たちはこの会社への就職に猛反対。ブラック企業だから入社はやめろとの忠告を振りきって、大友は入社します。就活で、たった1社、内定をくれた会社。すでに、恩義を感じていたのでした。

   4カ月たち、夏になっても、大友は辞めるきなど毛頭ありません。自分の入った会社がブラック企業だとは思えないのでした。週休0日制が実情、午前7時から翌午前2時にわたる長時間勤務、自腹で買わされたGPS搭載スマホによって監視され、数分の休憩もとれない外勤、などなど「会社というものは、こういうものだ」と洗脳されてしまったのでした。

  同僚を気遣うことが「成績不振」に結びつくという社風の中で、社員同士で連れ立ってランチするなんて考えられない日常。社内に友人をつくることさえできない環境で、それでも大友の気にかかるのは同期入社の村沢と夏野。上長である部長に心酔しきって、強引な営業活動に精をだしながら営業成績につながらない村沢。こんな社風で働きながら「お客様への迷惑」に気を遣い、当然ながら営業成績最下位の夏野。夏野は学生時代は人気抜群のユーチューバーで、ビリー・ジョエルの「ピアノマン」が持ちネタ。しかし、いまやパソコンを開くどころか、「帰宅」することすらできない毎日。疲れ切った夏野のようすに、大友は彼を終夜営業のチェーン居酒屋に誘います。深夜も深夜なので、他に客はいません。店員の好みなのか、ユーセンの洋楽がかかっています。村沢も合流し、3人で囲むテーブルに運ばれた生ビール。大友の心に、何かがおこったのでした・・・・・・

 

 

  安藤祐介さんはデビュー作「被取り締まられ会社員」からして、強烈な「会社」もの。面白く読んだのですが「なにも心に残らない」感じの作家さんというイメージが固定してしまいました。他の作品も、おもしろいけれど、「忘れてしまえる」作家さん。「おもしろさ」も人間性への考察によるユーモアではなく、キャッチーなギャグといったところ。

  シチュエーションコメディの「職人作家」として書き続けていく以外ない、といった感じです。

 

  本書も、軽く時間つぶしに読み飛ばすつもりで借りたのですが。

 

  これが大間違い。

 

  読んでいる途中でのめり込んでしまう内容。ラストまで読み終えたときの・・・・・・

  注意していただきたいのは「最初から順番に読む」こと。長編小説では当たり前のことなのですが、本作は「いかにも連作短編集」っぽい体裁をとっているのです。

  第1章「無敵社員」のしめくくりが「ああいった」感じなので、以後、どのようにこれ以上、話を展開させていくのか、おおいに疑問だったのですが、「タイニー・タイニー・ハッピー」や「阪急電車」と同じ趣向でした。ただ、「あるポイントを他の人間の視点でみる」というこの手法を、一番効果的に使えているのは、本作だと思います。たとえば「阪急電車」では、重要ヒロイン「祥子」は誰の目からみても同じ人物像で、視点がかわったことによって「大きな驚き」は感じないのですが、「逃げ出せなかった君へ」は「あれは、こういうことだったのか」というビックリがちりばめられ、全体のストーリー展開を補強しています。

  全ストーリーを通しての主人公は、1章から登場する夏野といってよいでしょう。バックの主旋律は「ピアノマン」。

  夏野の動画が予想もできないところで、他の人間の人生の分かれ道にたつ「正しい道しるべ」になっている。

 

  そして、いつのまにかフェイドアウトしたように見えた村沢の再登場。なぜか、ハッピーインベストメントと同種のブラック企業で働いているようすに、?が湧き起るのですが・・・・・・

 

  いろいろな登場人物の中で、一番、好感がもてたのは、わたしの場合は「シンジさん」です。適度にチャラいところも、いい感じ。「ワッカナイくん」と警官にあるまじき苗字の「ワキミ刑事」も印象的ですが。ワキミ刑事、初登場時のハンパない強さ、そういう事情を秘めていたんですね。思わず、読了済みのページをさかのぼって確認したくなります。

 

  じつはビリー・ジョエルはあまり好きではないのですが、「オネスティ」あたりから聴き直したい、という気分になりました。

 

  安藤祐介さん、「人間劇」おみごとです。