10年前の3月11日


私は市内の街中におりました。


専門学校の休み時間


国試に向けた班勉強をしていました。

※保育士試験で出てくるベル・ランカスター的なやつです。


その班では2日前の地震の時に

60センチの津波の恐ろしさについて

丁度話題にしたところでした。



朝からカーラジオの電波は悪いし

iモードは繋がらない

発災前でも電磁波的な物で乱れるようです

発災後はもちろん物理遮断と混雑が起きますが


クラスの半分は喫煙所に行ったので

※専門学校4年目のクラスなので全員成人

残ったメンバーで

お茶を飲みながら難問談義をしておりました。


暖かくて気持ちの良い

素敵な空間に

忍び寄り振りたくりかき混ぜていった大揺れ


みな、冷静に

落ち着いて避難しました。


メトロノームのように動くブロック塀を横目に

普段はルール上通行禁止で閉鎖されている

隣家の私道へ出る門を越えて

みんなで広場へ逃げました


そこで見た

仙台港に10メーターの津波という

誰かのケータイのワンセグのニュース

発災後、電気が復旧するまでに見た最初で最後のテレビだったように思います。


脳裏に浮かんだ歴史上の津波到達地点

小1と中1で習った事でした。

その話をすると

三陸出身のクラスメイト達が補完してくれて

普段沿岸地域を通学しているクラスメイトは

みな内陸を通って帰宅しました。


公立小と私立中で

それぞれに入学した年にその地域の津波到達の話を聞かされていた事

三陸の先進的な防災教育を受けてきた仲間がいた事

教育、知識は身を助けると

肌で感じた経験となりました。



自宅は大昔の津波浸水区域だったはずだけれど

今は海岸線が当時より沖に出て

海側に高速道路も通っていたので

浸水した地域まで自転車で行ける距離でありながら

どこか他人事のように静かでした。

内陸から来ようとする人は少なく

海側からは誰も来ないのです。


緊急自動車のサイレンと時折鳴る速報サイレンをBGMに

満点の星空を眺めた事を記憶しています。


夜は玄関上がりがまちのフロアに布団を並べて敷いて

手回しラジオと車で充電した携帯を手に

オーバーも着込んだまま

母と寄り添って眠りました。

男性陣は取引先や親族の年寄りを見回って片付けを手伝った後、街中で炊き出しを入手してきました。



あれから私は

子どもの頃から苦手だった地震の揺れが平気になり

ポポポポーンというコマーシャルのフレーズが大嫌いになりました。



あの時は寒かったので

停電で使えなくなった冷蔵庫や冷凍庫の食品が

そのまんま使用でき

非常用持ち出し袋の中身は使わず

学校の炊き出しにも並びませんでした

学校は沿岸から逃げてきた人や集合住宅が壊れて住めなくなった方が大勢居たので。


食料があるならもらいに行かない

無い人の分を減らしてはいけないと思って。


それでも意外と大丈夫でした。

冷凍庫の備蓄やレトルトの備蓄は食べきれないくらいあって、違う課題がチラついたくらいで。

暖かい時期じゃ無かった事が幸いしたのです。

津波から助かった後に凍死された方の事を思うと寒くて幸いと言う言い方も憚られますが。。。


そして、あの時余っていたレトルトの賞味期限ギリギリ&切れたパスタソース達をもっと困っている地域に届ける手段があったならとずっと心残りになっています。

パスタソースは後日、賞味期限は気にせずしっかり加熱して美味しくいただきました。



今後は

日頃のコロナ対策やおうち英語も

災害時に何かの役に立たないか

あってほしくない次の事の為に

考えて備えて行きたいと考えています。



あの日を忘れない