東急東横線、綱島に軍需工場はあった。戦後すぐ小さな電気会社となったけれど、小さな社宅はそのまま残されていた。私はそこから田園調布にあるミッションスクールに通った。周辺は母屋についた隠居所が私の家位のお宅に住むお嬢様であったらしいが、私は4年に入るときに親の言うまま編入試験を受けさせられて入れられた。

 

 隣の駅が日吉。そこに慶応があることは知っていた。当時幼稚舎(小学校)から高校までかしら?大学のキャンパスは三田だったようだ。でもあの中で野球なんてものの練習がされていたなんてびっくり。103年ぶりの決勝進出ってあるからそのころからあったんだろうなあ。そのころも野球部でも長髪だったのかしら?

      

 転勤で芦屋の社宅に移ったころ昭和28年かなア、県立高校の芦屋高校が珍しく夏の甲子園で優勝した。

 私の家は高校と同じ宮川町にあり高校は2本の道路の間にあった。私は神戸のミッションスクールに通っていた。芦屋駅からかえるには裏表のどちらかを通らなければならないその両方にまたがるグランドでは野球部が練習していた。野球部が練習を終えて帰るころ、うちにいたねえやさんが階段下から声をかける「A子さんお風呂わきましたよ~。」「A子さんごはんですよ~。」

 5月くらいになって気が付いたグランドに沿って歩くとかすかな声が聞こえてくる。誰も振り向いたりはしない。それなのに「A子さ~ん」とつぶやいていた。

 なんとその年芦屋高校は甲子園で優勝した。

 私は甲子園を見たくてやってくるいとこたちを案内し真っ黒になった。

       

 家の前を通るお祝いのちょうちん行列を見ようと首出したら行列の中から「A子さん」のささやきが聞こえた。沿道の人はけげんな顔。私はあわてて2階の窓から顔を引っ込めた。

 立教大学で長嶋と三遊間を守った本屋敷は芦屋高校出身である。私は2年の3学期には東京のミッションスクールに戻って縁が切れたけれど。ちなみに長嶋の奥様も娘さんたちも同じミッションスクールの後輩である。

 

 なんとなく身近な甲子園である。