大学生のとき、
救急法(心肺蘇生法)の授業で、ちょっと変わったテストを受けた。
90分の授業時間のなかで
教科書を見てもいいし、練習してからでもいい。
その時間内で、練習用の人形に心肺蘇生を行う。
自分が納得いく記録(実技動作をリアルタイムで記録できる)を提出し
それが評価される形式だった。
でも私は、不思議に思っていた。
技術を見るなら、先生が実際に見てちゃんとできてるか確認すればいいのに。
なぜ、1人ずつ、自由なタイミングでやる形式なんだろう?
モヤモヤしたままテストが終わり、あとから先生に聞いてみた。
「先生、あのテストって、どういう基準で成績をつけてるんですか?」
すると先生は、こう答えた。
「倒れている人(人形)に心肺蘇生を行った“早さ”で評価したんだよ」
「人が倒れていたとき、大切なのは“どれだけ早く動けるか”。
だからこのテストでは、行動までの“速さ”を見ていたんだ」
ああ、そうか──
これは「ちゃんとできるか」じゃなくて
「すぐに動けるか」を試すテストだったんだ。
そのときのことを私はいつも思い出す。
これって、子どもとの関わりにも同じことが言えるんじゃないかって。
子どもは、大人の「行動」を見ている
たとえば、保健室にふらっと来た子が、
ぽつりと「なんかもう疲れたな」と言ったとする。
そのひと言を、受け止めるか、聞き流すか。
「何て声をかけたらいいんだろう」って迷っているうちに、
子どもはもう話すのをやめてしまうかもしれない。
あの子たちは、
“助けて”のサインを言葉にする前に、小さなサインを出している。
そのサインに、私たちがどう反応するかを、すごくよく見ている。
一瞬の表情、行動、つぶやき。
そこに「今、できること」で応えられるかどうかは、やっぱり大事だと思う。
正解じゃなくていい。「動こう」とする姿勢が届く
養護教諭として働いていたときのこと。
ある男の子が、休み時間に保健室にやってきて、
友達とふざけ合ったり、何気なくおしゃべりしたりしていた。
いつもならチャイムが鳴ったら「じゃ、またねー」と教室に帰っていくのに、
その日はなかなか立ち上がろうとしなかった。
「どしたー?なにがあった?」
「えー授業やだからさぼりたい」
その言葉を聞いたとき、私は一瞬、迷った。
“授業をさぼる”ということを、養護教諭としてどう受け止めるか。
「教室に戻りなさい」と言うのが“正しい”対応なのかもしれない。
でも私は、彼の表情を見て、
「なんか、いつもとちがう」という感覚を強く感じた。
だから私は、「そっか、今日はさぼりたい気分なんだね」と返した。
しばらく雑談していると、急に彼が、
「じつはさ、昨日、飼ってたハムスターが死んじゃってさ…」
ぽろぽろと涙を流して、泣きじゃくっていた。
しばらく泣いた後、
「ちょっとすっきりした!」と笑って教室に戻っていった。
友達とは明るくふざけあって見えた彼。
だから「さぼっちゃだめだよ、教室行きなさい」
と私が保健室を追い出していたら、
もしかしたら彼は、自分の気持ちの整理ができずにいたかもしれない。
“正しさ”と、“その子の今”を感じる自分の感覚。
どちらも大切にしたいけれど、
あのとき私は、“自分の感覚”を信じて動いた。
“迷うこと”が悪いんじゃない
私たちは、大人として、支える側として、
「ちゃんと話を聴ける人でいたい」
「正しい対応をしたい」と思う。
だからこそ、言葉を選び、タイミングを見て、迷うこともある。
でも、そこで迷いすぎて立ち止まってしまうと、
子どもは「この人には頼れないかも」と感じることもある。
それでも大丈夫。
迷った経験があるからこそ、「今度は動いてみよう」と思える自分になる。
大切なのは、完璧な関わりではなく、
「今、自分にできることを選んで動く」こと。
目を向ける。声をかける。隣にいる。
それだけでもう、十分“動いている”ってことなんだと思う。
【今日の問いかけ】
あなたの目の前に、小さなサインを出している子はいませんか?
その子は、どんなふうにあなたの“反応”を見ているでしょうか?
【今日できる、小さなアクション】
「なんか気になるな」と感じたときには、
“ちゃんとした言葉”より、“今できる行動”を選んでみる。
声をかけることじゃなくてもいい。
少しだけ近くに座る、目を合わせる、静かにうなずく。
まず“動く”って、そういう小さなことでいい。
そしてそれは、子どもにとって、大きな意味を持つかもしれない。
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今日のサスケさん💕
ドライブ大好き💕風にあたるのが気持ちいいね!
かわいい💕

