好意の搾取


無料でもらえるもの、無料でやってもらえるもの

それは企業の宣伝であったり、お試しであったり、業務上の手法でもある。


個人的に受け持ってくれること、好意でのやり取りは人間関係上の潤滑のためでもある。

これくらいならとやったはすが、ずっとその状態を続ける事によりそれは当たり前となっていく。

最初は、『有り難い』と思っていたことも思わなくなってくる。

そのうちそれが当たり前であって『当然』のやり取りと思うようになってくる。

それは『好意』の上に成り立っているもので不安定でありとても気まぐれでもある。

その当たり前と思われ続けていたものが、突然無くなった時、恩恵を受ける側はとんな気持ちになるだろうか?

人によっては『困惑』『怒り』『恨み』にまで繋がることすらある。

一番初めはあんなにも『感謝』をしていたのに、真逆の感情に変わることすらある。

そして、時にはその『好意』すらもっと続けるよう強要すらする様になって、その『好意』があたかも自分の権限であるかのように振りかざしてくることにすらなる者もいる。


少しよく考えて欲しい。


今与えられている恵みはどこからどんな理由で受けられているのか?


なぜか高待遇の時こそ考えて欲しい。


誰かが見返りを求めず『あなた』を支えているということを…


それをどれだけ受けたままになっているのか?


考えて欲しい。


それは見えない世界では『つけ』を溜めてしまっていることにもなってくる。



このエネルギーの動きは、私には水溶き片栗粉のようなスライムのようなものに見える。

誰かにエネルギー与えるとその部分は凹む、与えられた部分は山になる。

でも、自然とある一定の時間が経つと凹みと山は平らになっていく。

凹んだ所にはどんどん周りから埋められていく、山の所は少しずつ周りに流れていく。



返す期間にはある一定期間が決まっていて、その間に少しずつでもその者に返していかなければ、もしかしたら不本意な形で『つけを払わされる』事になってくる。自然の摂理のようだ。


払わされるものには、人間の都合は配慮されていない。

良いと思われる『つけの払い』ならまさしも、不都合な『つけの払い』の場合の時もある。


だから、早めにできたら本人に『お礼』をした方が後々大変な事にならずに済む。

それと変な縛りのような動きの鈍さが無くなる。


もし、本人に会えない場合は、本人意外に『恩送り』をして欲しい。

誰かに手を差し伸べる事、誰かの手助けになる事をして欲しい。


お金だけではない、時間でも、労力でも、得意なことでも、必要と思えるものであったならどんな形でも良い。


少しでも得をしたい、損をしたくないと思いすぎることで、それ以上の損をする羽目に繋がってしまいかねない。


『恵み』を循環していけたなら、きっと誰かがあげすぎて疲弊せずに、誰かが『恵み』を溜め込み過ぎず、ちょうどよく『恵み』が循環していくようになる。

血液の流れを良くするように…


それは無闇矢鱈とする事でもなく、身を削ってまでする事でもない。

それは人の『好意』を拒否する事でもなく、人に任せない事でもない。


どちらもほどほどのバランスが必要。


共依存にならない様。

本当に必要な時に助け合って、そして、日常に日々の感謝を巡らして行って欲しい。


そうしたならお互いがお互いを信頼できて、必要な時に頼めて、必要な時に支えてあげて、お互いを支え合う本当の『お互い様』の精神になっていける。