ここ最近、息子は作業所の体験に

行っておりました。

色んな人がいるなぁというのと

息子は大丈夫だったのだろうかとか

不安は色々・・・。

ただ、作業所の皆様がとても親切で優しくて

支援の先生方がとても素晴らしい方々だったので

楽しく終えたみたい。良かった。

 

元々、息子はパニック持ちで

パニックと癇癪の間とは何かとか

いったいコレはどういう判別になるのだろうかとか

脳の本読み漁ったりもしてた時期があったけど

今思うと、パニックと癇癪というものは

虹色で区別すると解りやすいと思う。

結局は、パニックの裏には様々な経験や拘りや記憶であり

癇癪にはそこに、モラルや自我と不安までも付き添う物。

だから、結局は同じなんだよね。

 

そして、癇癪という物の方が整理しやすくなる。

 

つまり、虹に例える。

赤 橙 黄 緑 水色 青 紫

光の屈折により変わる物ですが

パニックと癇癪はこれみたいな物で

具体的に、周囲が勘で理解しようとする物が

癇癪であり、

抽象的に、周囲が勘で理解しなきゃと思う物が

パニックなのだろうなと思うようになりました。

 

息子は赤ちゃん~乳幼児にかけて

ほぼパニックが多く私と旦那を狂わせ、

一度だけ犯罪に近い事もありましたよ。

※なので我が子に手を殺める人を悪く言える事は出来ない

 

幼児期から年少児にかけ、

癇癪が多くなりパニックらしいものが減り

 

少年期にはほぼ癇癪。

そして、今では思春期。

癇癪は、自分でも分かるものになりました。

 

大人でも癇癪はいるよね。

でも、大人になると他人のせいにしたり

文句に変わったり、愚痴にかわったり

意地悪や悪口へと変えてしまう人がいるから

ほんと質が悪い・・・・・

 

息子の作業所にいる人達をみて、

この人達の方がずーっと大人かもしれないなと

思ってしまいました。

彼等は、小さい頃からずーっと

他人よりも向き合ったり自覚してきた人達だものね。

健常の世界にいる人達よりも

大人になるのが早くなるのかもしれない。

 

特に息子から得た勉強のせいかが、私にもあるようで

見た目では分からない障害という物を

健常側からいう「見た目」という意味と

障害持った側からいう「見た目」という意味の

差と違いをうんと知る訳で。

 

でも、この僅かなようで大きなこの意味合いのブレは

互いに自分の経験から言う物なので、

寄り添う事もなく

「そういうものなのか」と変える気はないのも

悲しいかな、あります。

 

物凄い昔の話になりますが、

とある、人種差別の辛さを物語った映画を

解説していた淀川さんが言った言葉があります。

 

「黒人差別の映画を世に送るには、

白人を主人公にしなければならない」

 

確かに、人種差別の映画は沢山あるけれど

黒人を主人公にした映画の代表作は

手で数えられる数でしか世に残されていない。

 

今回の意味合いととても類似している物がありますよね。

まぁ、健常の中で生きてきた人が障害を持った人に

人生をかけてフォローしようとしている大人達にしか

この淀川さんの言葉の意味が理解できないかもしれない。