ある本にこういう場面が出てきた。
主人公には訳あって四人の父親がいる。
主人公がまだ子供の頃、
一人の父親が他の三人の父親に質問する。
「もし息子がなるならどちらがいいか?
いじめる側かいじめられる側か。」
究極の選択というやつ。
四人の父親は考える。
そして全員一致で「いじめる側」と答える。
これを引き合いに出して高校生になった息子にこう説いた。
「世界中の親が子どもにはいじめられるよりいじめる側でいてほしいと願う限り、いじめは無くならないし、戦争もなくならない。」
と。
私は夫に同じ質問をしてみた。
答えは「どっちも嫌だ」。
そうだ、そのとおりだ。
私だって息子にはどっちにもなってほしくない。
「いじめる側かいじめられる側か」
この設問自体がいじめを前提として成り立っている。
だから、答えはどちらを選んでもいじめは無くならない。
息子に人を傷付ける人になって欲しくない。
もちろん傷ついて欲しくもない。
こんな究極の選択をしなくてもいい社会になってほしいな。
社会がそうならないのであれば、息子には自分を保って強くあってほしい。
と、メッセージを残したところで終わればいいのだけど、私の経験を一つ書きます。
私が中学の時、意地悪そうな女の子がクラス全員に呼びかけて、ある一人の子を無視するというよくあるいじめを開始した。
私はもともとその無視される子と仲良くしてたので、それまでと変わらず話したり一緒に帰ったりしていた。
そしてどれくらいの日数が過ぎたか分からないけど、あるとき、いじめを開始した女の子が私と無視されてる女の子のところにきて仲良くし始めた。
それから三人で一緒に帰るようになった。
なんだこれ、茶番か?!と思った記憶がある。
仲良くなってから知ったけど、いじめを開始した子は韓国ハーフで、韓国にいれば日本人と、日本にいれば韓国人といじめられていたそう。だからいじめられないように、いじめる側になってみたのかな。
その子とは高校生になっても仲良くしていたけど高校が違ったからだんだん疎遠になって。今はどうしてるのかな?
その子は自分がいじめる側にいて本当は辛かったんじゃないか、だから罪悪感から逆にいじめた子と仲良くなったんじゃないかと思う。
改めて息子には、どちらの側にも立ってほしくないと思う。
もしいじめられる側になってしまったら
思い出してほしい
「ぼくは愛されている」
「たくさんの人に愛されている」
自分をいじめている人の数より
自分を愛する人の数の方が
圧倒的に多いことを。
そして友達や家族、私に話してほしい
直接解決できなくても
辛い気持ちを聞くことはできるから
私も悲しいことがあればあなたに話すから
そのときは聞いてほしい
だからあなたも私に話してほしい
あなたの心が砕けそうなときは
お母さん、あなたに寄り添いたい
いじめられるのは恥ずかしいことじゃない
きっとあなたが羨ましくて
妬んでいるだけだから
いじめている子は
本当はかわいそうな子だから
だからどんなことでも話してね
あなたには
たくさんのたくさんの味方がいます