「わからない」という感覚を
思考で探索していくこともできるのだけれど、
この「わからない」と訳されているものの本質が
< わたしたちそのもの >でもある。
自分探しというのは、
この「わからない」の解明だったりするのだけれど、
わたしたちは誰もが、特別であり何者でもない。
だから誰もが抱くその感覚は「正解」であるのだけれど、
分離した視点で翻訳するとちょっとその意味合いが、ズレる。
特別であるというのは<たったひとつ>という意味。
誰もが、わたしもあなたもが、
別々ではないという本質を通してのみ、
その意味はそのまま訳される。
二元をとおして訳されるとなんでも
勘違い、的外れ、ちょっとズレる。
人生とは、そういうボタンの掛け違いによって起きる
コントです。
喜びも悲しみも、勘違いによって成される。
何者かであるというのは勘違いでしかないのだから
二元はなんでもかんでも“自分”をとおして、
わたしは、わたしが、あなたは、あなたが、と訳されるから、
ちょっとづつその意味が本質からズレていく。
わたしが消えるまで、そのズレが軌道修正させることはない。
ゲームをする対象/相手
予想できない「わからない」一手をさしてくれる現象が
欲しかったのだろう。
わからない、未知なる現象
というゲームの醍醐味への面白みがなくなったら、
そのゲームの席から立つだろう。
かんじるココロケア あまのこころ