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私の上に降る雪は
真綿のやうでありました
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新聞に、この2行が紹介されていた。
中原中也の『生ひ立ちの歌』の最初に「幼年時」として、この2行があるらしい。
瞬間の私の感想は「苦しみ」だった。
真綿なような雪。それは、一見美しく、はかなげだが、積もるにつれ、黙って悪魔と化す。
真綿のような雪が降る夜は、恐ろしい。いつまでもやまないのではないかと思ってしまう。そして、我が家も私も、埋もれてしまうのはないか、と。
作者が中原中也と知って、さらに苦しみが増した。哀しみまで加味された。
この作者も、降る雪の下、やがて……
ところが、だ。
解説者(新聞記者なのか有識者なのか、分からない)は、「真綿のやう」を「産着のような真っ白な幸福感」と捉えていた。
私と真逆。
解説者は、「雪は、「少年時」「17-19」…と進むにつれ、霙、霰と変化し、そして今は?」と締めくくっていた。
なるほど。そういうことか。
それにしても、私にはやっぱり真綿のような雪は、苦しみや哀しみの予感、そして象徴としかどうしても捉えられない。
もう一度、反芻してみる。
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私の上に降る雪は
真綿のやうでありました
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……やっぱり……
手のひらに 乗る雪消えて 針となる
鞠子