真綿のような雪、とは | 鞠子のブログ『ナミダのクッキング』

鞠子のブログ『ナミダのクッキング』

今日、ちょっぴり悲しかったこと…

・・・・・・・・・・・

私の上に降る雪は

真綿のやうでありました

・・・・・・・・・・・・

 

新聞に、この2行が紹介されていた。

中原中也の『生ひ立ちの歌』の最初に「幼年時」として、この2行があるらしい。

 

瞬間の私の感想は「苦しみ」だった。

真綿なような雪。それは、一見美しく、はかなげだが、積もるにつれ、黙って悪魔と化す。

真綿のような雪が降る夜は、恐ろしい。いつまでもやまないのではないかと思ってしまう。そして、我が家も私も、埋もれてしまうのはないか、と。

 

作者が中原中也と知って、さらに苦しみが増した。哀しみまで加味された。

この作者も、降る雪の下、やがて……

 

ところが、だ。

解説者(新聞記者なのか有識者なのか、分からない)は、「真綿のやう」を「産着のような真っ白な幸福感」と捉えていた。

私と真逆。

 

解説者は、「雪は、「少年時」「17-19」…と進むにつれ、霙、霰と変化し、そして今は?」と締めくくっていた。

なるほど。そういうことか。

 

それにしても、私にはやっぱり真綿のような雪は、苦しみや哀しみの予感、そして象徴としかどうしても捉えられない。

 

もう一度、反芻してみる。

 

・・・・・・・・・・・

私の上に降る雪は

真綿のやうでありました

・・・・・・・・・・・・

 

……やっぱり……

 

 

 

 

 

 

 

手のひらに 乗る雪消えて 針となる

鞠子

 

ブログランキング・にほんブログ村へ