久々の更新となりましたが、今回は動物問題一切関係ありません。
完全に私事ですので、ご注意くださいませ。
7月23日(火)に、母が亡くなりました。
2年前に癌と診断され、医師には余命1~2年と言われましたがその通りとなりました。
77歳だったので平均寿命よりは少し早いですが、早すぎるということはなく十分生きたと思っています。
久々の更新となったのは、亡くなる2週間前から母の容態が急激に悪くなって入院し、私が病院に面会に行ったりなんたりで忙しくなったからです。
特に1週間前には、もう間もなくである事が素人目にも明らかな状態でしたので、毎日朝から病院通い。
母の欲しいものを買ったり、病院から要求されたものを買ったり、自分の買い物もあるし、ペットの世話もあるし、仕事もあるしで、時間がありませんでした。
7月23日の早朝に意識がなくなり、その数時間後、永眠。
葬儀屋のお迎え、安置所での面会、親族とのお別れ、火葬も済ませ、ようやく時間が出来てこのブログを書いています。
これから遺品整理を行っていくのですが、その前にこれから忘れていくであろう母親の記憶の整理を行っておくことに。
今は動物問題が主のブログですが、元々はチロとツグミの日常を書いていた趣味ブログ。
たまにはいいだろうということでこのブログを利用し、母の歴史を書かせてもらいます。
(最後にはチロたちも登場しますしね。)
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母は全体を通して、苦労の人生を送ってきました。
母は戦後に、4人兄弟の末っ子として生まれましたが、
生まれて間もなく不幸に見舞われます。
両親がともに病気で亡くなってしまうのです。
まだ1歳の時でした。
まず母親が亡くなり、わずか1か月後に父親も亡くなりました。
1歳にして母はみなしごになったのです。
両親を失った4人の兄弟は、まわりの助けもあり、なんとか引き取ってくれる家族が見つかりました。
が、4人とも別々の家族に引き取られ、それ以降 兄妹はバラバラになりました。
戦後の貧しい時代に引き取り先が見つかるだけでもありがたいことなのかもしれませんが、
母を引き取った家族はお世辞にもいい家族とは言えませんでした。
母を引き取ったのは、子無しの夫婦。
年の差婚の夫婦で、奥さんが旦那さんより10歳くらい上。
この夫婦は、なぜ母を引き取ったのか分からないくらいのドケチ夫婦でした。
母は小さい頃から、夫婦から欲しい物は何も買ってもらえませんでした。
払ってくれるのは、本当に最低限の食事や、学費のみです。
加えて、お小遣いももらえませんでした。
なので、お金を貯めて欲しい物を自分で買うことすら出来ません。
友達が持っている物、食べている物、欲しい物があっても我慢するほかありませんでした。
何も買ってもらえないというのは文字通りで、着る物も含めてろくに買ってくれないのです。
着る物はいつも使い古されたボロボロのもらいもの。
下着も買ってもらえなかったので、小学校の身体測定のときは、あちこちが破れたボロボロの下着で測定。
皆、普通の下着を着ているのに、女子の母だけが使い古されたボロボロの下着。
とても惨めだったそうです。
これだけを聞くと、家が貧しいから買ってあげられなかったんじゃないか? と思う人もいるでしょうがそうではありません。
この夫婦、裕福ではないかもしれませんが、お金はそれなりにはあったのです。
ですが、あえて子供の頃の母にお金をまわさなかったのです。
この夫婦は現代でもよくいる、旦那がクズ男で、奥さんがダメ女の夫婦。
旦那は浮気性で、頻繁に女遊びを繰り返していました。
女遊びに使うために、子供の頃の母には一切お金をまわしたくはなかったのでしょう。
奥さんは奥さんで、そんな旦那を黙認。離婚はせず。
時代が時代で離婚がしづらかったのか、金に困るからなのか、それとも旦那に惚れ込んで別れられなかったのか。
なんなら自分も元は浮気相手だったのかもしれませんね(詳細は分かりません)。
不運にもそのような夫婦に引き取られ、貧しくない家でひもじい小中高校生活を送った母。
ご飯も満足に食べさせてもらえず、成長期にはお腹が空いて辛かったと言っていました。
高校生になって知恵のついてきた母は、家にある米をいくらか取って、それを売ってお金にするようになりました。
もちろん、こんな事が夫婦にバレれば問題ですが、高校生にもなって何も買えないのはやはり辛かったのでしょう。
何とかお金を工面しようと考えた結果が、家の米を売る事でした。
しかし、近所の告げ口によりそれが夫婦にバレます。
母は怒られ、二度とやらないように注意されます。
小さい頃から夫婦に「あんたは本当の子供ではない」とか「引き取ってやったのに、育ててやってるのに可愛くない」といった嫌がらせを目の前で言われてきました。
日頃から、意地の悪い言葉を母に浴びせていた夫婦ですから、この時は相当怒られたはずです。
しかし、母はやめませんでした。
再度バレて怒られた際には、「今度やったら高校をやめさせる」と脅されたそうです。
しかし、それでも母はやめませんでした。
親に怒られながら、脅されながら、欲しい物のためにお金を得なければならないのは、とても惨めだったことでしょう。
女遊びに回す金があるなら、多少の小遣いくらいやればいい話ですが、
この夫婦からすれば、本来なら野垂れ死にのところを、最低限タダで食わしてやってるんだから贅沢言うな、くらいの感覚なのでしょう。
このような夫婦に、「引き取った責任」というものを問うたところで無駄です。
旦那がロリコンではなく、性的虐待されなかっただけマシなのかもしれません。
小さい頃は、嫌がらせなのか合鍵をもらえず、真冬に夫婦が仕事から帰ってくるまで延々外で待っていたという話もしていました。
小遣いは渡しませんが、手伝いは四六時中させてたようなので、家政婦を雇ったくらいの感覚だったのかもしれません。
他にも色々な嫌がらせや理不尽な事があったでしょう。
母、よくグレなかったなと思いますね。
聞いている限りは、近所の大人や学校の先生はとても良い人優しい人が多かったようなので、そこに精神的な逃げ場があったのではないでしょうか。
母は、
「色々嫌な事を言われたりされてきたけど、本当の子供ではない自分をよく最後まで育ててくれた。
自分の子供でも育てるのは大変。自分なら他人の子供を育てることは出来ない。」
と語っていました。
夫婦は奇跡的に高校までのお金は出してくれていたようですが、勉強に興味があった母は大学進学を希望します。
とはいえ、当時は大学進学はまだ普通の時代ではないでしょう。
ましてや女性の大学進学はかなり少なかったのではないでしょうか。
というわけで、この夫婦が大学の学費など払うはずもなく、母は自分で稼ぎながら大学に通うことにしました。
これで夫婦の元を去り、母は独り立ちしたというわけです。
ですが、残念ながら学費は払いきれず、大学を中退します。
私は小さい頃から「勉強しなさい。大学へ行きなさい。」と何度も母から言われてきましたが、
この時の後悔が大きかったためではないでしょうか。
この後、大学中退後から、私の父と結婚するまでの事はっきりは分かりませんが、どこかの事務員として働いていたはずです。
母はまわりから美人と言われてきたそうで、
確かに、私の友達が家に遊びに来たとき母に会うと、「綺麗なお母さんやね!」という友達もいました。
なので、若い頃は男が寄ってきてしょうがなかったと言っていました。
ただ個人的な意見としては、母の美人というのはあくまで女性ウケするタイプかなという感じです。
可愛い系というよりは、目鼻立ちがハッキリしている外国人風の美人という感じです。
実際、綺麗なお母さんと言っていたのは私の友達は全員女子友達。
昔の写真で化粧の感じや全体的な雰囲気を見ていると、清楚系というより、やや派手なタイプに見えます。
加えて、不幸な育ちからか、性格はとても気が強く、こだわりが強く、真面目で温和な男性は近寄りがたかったんじゃないかなぁと思います。
男が寄ってくると言っても、遊び目的の変な男が多かったのではないかと推測されます。
(こう結論付ける理由は後々分かります。)
しかし、そんな母も一度は大恋愛を経験したとのことでした(私の父ではない)。
おそらくは変な男が多く寄ってくる中で唯一、
家がとても裕福で、温和な(気弱な)男性と出会います。
恋愛は順調に進み、結婚寸前までいきました。
が、この時も母に不幸が訪れます。
男性側の両親が、母との結婚に猛反対したのです。
当時は偏見のキツイ時代、家系をとっても気にする時代でしたね。
男性はいいとこの坊ちゃんだったので、両親は立派な家系や、立派な職業の女性を選んでほしかったようです。
母を引き取った夫婦は別に裕福というほどではないでしょうし、しかも母は里子。
高卒の小さな会社の事務員。
向こうの両親からすれば、母は価値がない女で、うちの息子に全くふさわしくないと思ったのでしょう。
両親から母との結婚を猛反対され、男性は抵抗してくれたようですが、とはいえ気弱な坊ちゃん育ち。
最後まで両親に逆らうことは出来ず、駆け落ちしてまでやっていく勇気もなかったようで、これを機に2人は別れることとなりました。
その後男性は、両親の理想通りの女性を妻に迎えたそうです。
しかし、その数年後。
その男性は自殺したそうです。
理由は不明。
母と別れたことがショックだったのか、それとも全然関係なく、仕事やプライベートで気に病むようなことがあったのか。
母と結婚していれば、その男性も母も人生が上手くまわっていたのかもしれませんね。
言ってもしょうがないですが。
ともかく、不幸な生い立ちの母は、その生い立ちのせいで、唯一手にしたチャンスも逃してしまう事になりました。
それからもいくらか恋愛を重ねてきたのでしょうが、細かい事は分かりません。
最終的に20代半ばくらいで、私の父と出会い、結婚します。
左が父、右が母。
浮気性のクズ男に育てられた母。
その経験を元に、自分の結婚相手には真面目な男性を選ぶはず。
と思いきや。
結婚相手に選んだ私の父も、クズ男でした。
女遊びに、酒に、ギャンブル。
自分で稼いだ金は、私利私欲のために使い、家で待つ母にはろくに金を入れませんでした。
そして写真を見て分かる通り、態度はやたらとエラそう。
たいした能力もないのに、自分が偉い・正しいと思っている勘違い男で、
仕事場ではすぐに上司の指示に逆らって揉め、そのうち仕事をクビになり、職を転々としていました。
母には金を入れないのに、後輩にはおごって盛大に金を使っていました。
そこで、自分の武勇伝でも語って、気持ちよくなっていたのでしょう。
母は金を入れなくても我慢する都合のいい女ですが、後輩は金を払わないとついてきませんからね。
しかし、このような金の使い方をしていて、金が貯まるはずもなく、
そのうち金を使い果たし、父の親が残してくれた財産にまで手を出し、金を使うようになったそうです。
子供には無関心。
これはアルバムを整理している時に見つけた、私が産まれた写真がまとめられていたアルバムの父と母のメッセージ欄。
父の欄は空白。産まれたときからすでに無関心であることがよく分かりますね。
父はこの落ち着きようのなさで、まさかのバツイチ・・・。
離婚した前の奥さんとの間に出来た子供が4人もいました。
ただでさえ子供に無関心なのに、5人目ともなると余計にどうでもいい存在だったでしょうね。
まさに、絵にかいたようなクズ。
クズ of クズです。
女性に暴力は奮わない主義のようだったので、唯一そこは不幸中の幸いでしたが、よくもまぁこんな男を選んだものです。
私は「男が沢山言い寄ってきたのに最終的に選んだのがこれかよ。」という話を、大人になってから母に何度もしていました。
変な男しか寄ってこなかったのではないかと推測しているのはそこですね。
あるいは、母がとてつもなく見る目がなかったか。
本当に選べる立場なら、もう少しマシな人を選んでいたはずです。
この父と20代半ばで結婚し、30代前半で私を出産します。
私的には、よくこんなクズと長い間、結婚生活を続け、子供を産もうと思ったものだなと思います。
小さい頃からもらえない事に耐えてきた母は、何ももらえない結婚生活にも変に耐える事が出来てしまったのかもしれませんね。
何かに期待しない事に慣れきってしまっていたのではないでしょうか。
それか、子供を産めば父にも変化があると思ったのかもしれません。
しかし、私を産んでからも、父親のクズっぷりは変わることはありませんでした。
仕事が終われば、女遊び、酒、ギャンブル。
夜はろくに帰ってこず、子育てには関わらず、そしてお金もろくに渡さない。
クズはどこまでいってもクズなのです。
これまでは自分だけ暮らせば良かったので、少しのお金でやっていけたでしょうが、
私が産まれたことで、お金がかなり必要になってきました。
それまでは主婦か、パートをしていた程度だったと思いますが、
私が産まれたことで、母は社員として働くようになります。
赤ちゃんだった私を背負いながら。
こうなって初めて、クズの父と一緒にいる理由など一切ないことにようやく母は気が付きます。
金は入れない、子育てもしない、ろくに帰ってこない。
帰ってこれば、会社の愚痴を聞かされ、エラそうに飯を出せ、風呂を沸かせ。
何の役にも立たない、むしろ邪魔しかしない、見た目はオッサン,中身は幼稚園児のクズとなぜか一緒に暮らしているわけですね。
なので、母は私が赤ちゃんの時に離婚しました。
ようやくです。
ようやく母は目を覚ましたのです。
母は、私を産んでから内面が大きく成長した、と語っていました。
子供を産んだことで、責任感が芽生え、自分のためではない生き甲斐が出来たのです。
現実を直視するようになり、ズルズルと続けていたクズ旦那との結婚生活にようやく終止符を打つことが出来ました。
こうして私たちは、母1人子1人の母子家庭となりました。
当時は、母子家庭に対して見下す人もかなり多かったそうで、
お金がなく、自治会費などが払えないと、性格の悪い近所の人からかなり嫌味を言われてきたそうです。
社員とはいっても、事務員の女性1人の稼ぎですから、貧乏暮らしです。
家はもちろん一戸建てではなく、団地暮らしです。
しかし、母は自分が何ももらえなかった分、そんな思いを私にはさせたくないと、欲しいものはそれなりに買ってくれました。
もちろん貧乏でしたので、何でもかんでもというわけにはいかなかったかもしれませんが、小さい頃はおもちゃや絵本や図鑑は沢山あったように記憶してます。
また、ご飯は好きなだけ食べさせてもらいました。
自分が満足に食べられなかったから、ご飯だけは絶対に好きなだけ食べさせたいと思った、と言っていました。
うちの猫達も、母にたっぷりすぎるほどエサをもらっていました。
(ただ、そのせいでデブ猫になりやすい。)
お金がなくても、遊園地や旅行に連れて行ってくれました。
なんでもかんでもというわけにはいきませんが、漫画やゲームもそれなりに買ってくれました。
お金はなくとも、私自身はひもじいという思いをしたことは1度もありませんし、愛情も沢山注いでもらいました。
こうして母子家庭のまま、保育所,小学校へと通います。
貧乏でも、私としては特に不自由なく、幸せに暮らしていたのですが、
あくまでそう見せているだけで、母にとってはカツカツだったのかもしれません。
また、ずっと母は、私に父親がいないのが気がかりだったようです。
私は小さい頃に「なんでお父さんがいないの?」的なことを言ったことがあり、それが余計に母を迷わせていたようです。
そこで、母は再婚をします。
その相手は・・・。
そう、前のクズの父親です。
実は、父は離婚してからも何度か母に会いに来ていました。
私利私欲のために金を使い続けた結果、資金が底をつき、人が離れ、職も転々とし、年を重ねていくうちに、誰にも相手にされなくなっていったのでしょう。
子供である私に会うという名目で、母に会いに来ていました。
私に会うというのはただの口実です。
一応家に来れば、私と多少遊びはしますので、私と会うためというのは辻褄はあいますが、そんな人間でないことは今はよく分かります。本音は、誰にも相手にされなくて寂しいから母に会いに行ってたのでしょう。
小さい頃の私は、もちろん父がクズだと分かっていません。
たまに来て遊んでくれて、たまに少しの小遣いをくれるお父さんというイメージです。
ただ、面倒くさいところもあるな、と当時から感じていたので、大好きというほどではありませんでしたが、
実の父親というのもありますし、あからさまに悪いイメージはなかったと思います。
そのイメージで考えているから、「なんでお父さんがいないの?」という発言につながったのではないでしょうか。
ただ、私自身はこの発言をした覚えが全くありません。
というか、父がいなくて辛いと思ったことは一度もないと思います。
言っていたとしても、話の流れで何となく言った程度ではないでしょうか。
深い意味はなかったはずです。
そりゃ父親がいなければ、生涯のうちに一度くらいは口にするでしょう。
しかし母の中では、父親がいない子供、というのが引っかかっていたところに、その発言があったので何とかしなければという思いがあったのでしょう。
そのため、徐々に父とヨリを戻すようになっていったのです。
この頃にはさすがに、父も以前よりは落ち着いています。
そりゃ金も少なくなって、人も離れていますからね。
とはいえ、金がなくなったわけではないですし、
一緒に住んで共働きでいけば、多少お金にも余裕ができますし、
向こうは持ち家でしたので、一戸建てにも住めます。
ということで、私が小学校高学年くらいの時に、父と母が再婚します。
今これをご覧の方は、イヤイヤイヤ・・・って思いますよね。
私も今の知識と経験が当時あれば、絶対やめとけっていいます。
クズはどこまでいってもクズ。
多少マシになっても、元がクズなのだから普通の人にはなれないって。
でも当時、私はそんなに悪くないイメージの父親。
そして母はあまり賢いと言える人ではなかったので、やはり何度か痛い目にあわないと分からなかったのでしょう。
それに、将来への不安や、私の成長の事を考えると、冷静な判断が出来なかったのもあると思います。
孤独で寂しいという思いもあったのかもしれません。
父は前の奥さんとの子供が4人おり、そのうち3人(男2女1)を引き取って育てていました。
再婚するまでは父子家庭です。
このクズ父に育てられた子供たちが優しい人たちなわけがないですよね。
愛情をかけられすぎて育ち、保育所も小学校も良い人たちばかりの環境で育った温室育ちのボケーっとした私と、
母からの愛情をもらえず、クズ父の意味不明な教育方針の元、厳しい環境で育ち、スレてしまった3人兄弟が共に過ごします。
うまくいくわけないんですよ。
最初は気を使って一緒に遊んだりもしてくれたのですが、そんなのは最初だけ。
一緒にいる時間が長くなると、徐々に私のテンションにイラつき始めたようで、兄の1人が私をイジメだしました。
言葉で嫌がらせはもちろんですが、プロレス技をかけたりして肉体的にもイジメを行い始めたのです。
当時私は小学生、兄は中学生。
イジメられた経験がなかった私は、抵抗もせず、ただただ「痛い」と言いながら泣きわめくばかり。
もう1人の兄も、そして姉も見て見ぬフリです。
さすがクズ父に育てられた兄弟です。
ただ、私はすぐに母に言いましたので、母が本人に言い注意しました、
兄からは「チクリやな」と嫌味を言われましたが、それでイジメ自体はすぐに終わりました。
が、こんな連中とその後、心を通わせられるはずもありません。
また、心通わない他人と住み続けて楽しいわけがありません。
父は女性には暴力を奮いませんが、男には普通に暴力を奮います。
私はこの年になって忘れもしない出来事があります。
それが父に殴られた記憶です。
ある日、私は学校が終わり帰宅。
その時父はいませんでした。
散髪に行っていたのです。
それから、私は外へ遊びに行きました。
遊び終わり、家へ帰宅すると、散髪後の父親も帰ってきました。
父は不機嫌そうな顔をして、
「外で遊んで来い」
と私に言いました。
私は足早に面倒くさそうに
「もう行ってきた」
と言い、父の横を通り過ぎ、リビングに行きました。
すると、私の言い方が気に入らなかったのでしょう。
父は私を追いかけてきて、突然
「口答えすんな」
と言い、私の顔面をグーで殴ったのです。
私は殴られた衝撃で、鼻血が出て、滝のようにボタボタと垂れ流していました。
なぜ殴られたのか?
意味が分かりませんでした。
この後、母から聞いたのですが、父は髪を触られるのが嫌いだそうで、散髪の後などはすごく不機嫌になるそうです。
機嫌が悪いから、自分の言いなりにならない生意気な口を聞く子供を殴ったのです。
クズはどこまでいってもクズなのです。
これ以外にも、日常生活で、父のウザい部分や、無駄に気を使わなければならない時、意味不明な教育方針など多々問題があり、母も辟易していたところにこの事件です。
このあたりでようやく、父親のいない貧乏生活よりも、この父親といる生活の方がよほどマイナスであるという事が確信できたようです。
母は父と再び離婚します。
再婚生活はわずか1年で終わりを迎えたのです。
クズはどこまでいってもクズ。
母は再び痛い目にあい、ようやくこの真理に気づけたようです。
こうして再び母子家庭として、過ごしていきます。
ろくでもない父親ならいない方がマシだと確信し、もう結婚しないつもりでいた母でしたが、
私が中学くらいのときに、友達からお見合い相手を紹介されます。
その友達は当時、旦那が社長の金持ちで、必要ないのに母に高級料理やエステなどをおごって付き合わせていたので、
断りにくいというか、断ると後々面倒くさいことになるので、会うだけという約束で、私を交えてお見合いをします。
ただ、たった数分のお見合いで、こいつもクソ男であることがよく分かりました。
細かい話は覚えていませんが、最初の何分かはお互いのことを話し、結婚してからのことや、子供にどういう風に接していくかを話していたと思います。
もちろん最初ですから、本音は言いません。
調子の良いことを言い、母に合わせてくれるかのように言っていたと思います。
ところが、とある質問のときに男の本音が出たのです。
「息子が猫を飼いたいと言っているのですが、猫を飼うのは大丈夫ですか?」
と母が聞きました。
「大丈夫ですよ。飼ってみましょう。」
と最初は合わせます。
しかしその後、こう続けます。
「猫は中と外を行ったり来たりするので、衛生面で問題は生じますが。」
という引っかかる言い方をしたのです。
当時の猫は外に散歩させるのが主流の時代。
どうやら男は神経質なタイプだったようで、中外を出入りする猫を飼うのが嫌だということがこの発言であっさり見抜けますね。
この発言が母の逆鱗に触れます。
「衛生面って、それが動物を飼うということじゃないですか?」
と強い口調で男に言うと、男は焦り、
「まぁ、でも飼ってみましょう。」
と、母をなだめます。
そもそも、飼って「みましょう」って何? って話ですよね。
うまくいくかどうか、試しに飼ってみて様子を見ようってことか?
なら、うまくいかなかったらどうするつもりだ? 誰かに譲るのか? 棄てるのか?
嫌なら正直に「猫を飼いたくない」と言えばいい話です。
その方が誠実ですよね。
飼うのが嫌とか、猫が嫌いとかなら、じゃあ相性が合いませんね、で終わればいいのです。
で、どうしてもこのお見合で決めたくて、もし相手に合わせると決めたなら、最後まで合わせ切ればいいのです。
合わせている風でありながら、自分の本音をジャブ打ちするから、中途半端でセコイ本質が透けて見えるのです。
母は元々断る気でしたが、よほど相性が合えばなくはなかったでしょうが、この発言もあり、お見合いは予定通り破談に。
後々聞いた話では、その男は裏で母の悪口を言っていたそうです。
案の定のクソ男でしたね。
相変わらずの男運の無さですが、クズの父との経験が生き、目が覚めきった母は、この男と一緒にならずに済みました。
母は私が中学の頃に、皆さんもご存じの企業の中途採用に応募しました。
倍率が数十倍で、若い人も男性も多く応募している激戦区でしたが、母は40代にも関わらず見事に採用となりました。
母は外見的に目を引くのと、あとトーク力があるので、それが功を奏したのかもしれません。
そして、その採用担当者たちに、女性差別や年齢差別をするような人たちがいなかったという奇跡もあったのでしょう。
さらにこの会社での業務内容が母にとても相性が良く、母は会社でバリバリ仕事で結果を出し、信頼され、表彰され、昇進もしました。
これによって年収が上がり、母は貯金が出来るようになりました。
貯金が貯まり始め、収入面で自身のついた母は、
私が高校の頃に母の夢だった一戸建てのマイホームをローンで購入します。
(しかし、実は数年後、この件でひと悶着がある・・。)
私は貧乏には慣れていたし、めちゃくちゃ不自由していたわけでもないので、団地でも別に気にならなかったのですが、
母は自分の家を持つのが夢だったようで。
あと賃貸料を払い続けるよりも、購入した方が財産になるから一戸建ての方がいいと言っていました。
こうして約16年の団地生活は終わりを迎え、持ち家での生活が始まりました。
(今でもその家に私は住んでいます。)
前猫のミーを迎えたのも、この頃ですね。
また、私が高校のとき、
母の引き取り先の父 つまりは 私のお爺ちゃんが亡くなり、実家の九州までお葬式に行く事になりました。
浮気性のクズ男のことですね。
私はお爺ちゃんとは全然面識がなかったので、遊びたいゲームもあるし、面倒くさいという気持ちしかわかず、行くのを断りましたが、
そしたら母が怒って泣き始めたので、仕方なく行く事にしました。
このとき、母は小さい頃に生き別れた姉と再会します。
左がお姉さん。右が母。
2人ともアラフィフくらいかな?
葬式の後、母とお姉さんと私とで、「スペースワールド」とかいうテーマパークに行きました。
(今はもうなくなったっぽいです。)
正直、面識のないお爺ちゃんの葬式、面識のない親類との宴会、何もやる事が無い隙間時間の暇な時間など、なかなか苦痛な数日でしたが、
スペースワールドの絶叫マシーンだけは結構おもしろかったのが記憶に残っています。
こちらのお姉さんとはもうこの先一生会うことはないと思っていました。
というか、この人が母のお姉さんだということすら当時の私は全く認識していませんでしたが、
このお姉さんが、後々私にとって重要な人となり、再会することになるのです。
私は勉強、スポーツ、音楽など何に関しても、すべてにおいて能力が中途半端なタイプでした。
運動神経はそれなりではありましたが、結局高いレベルで戦えるほどでもないですし、特につきつめようという気もありませんでした。
頭も良くはなく、勉強は中学の頃は全然でした。
私は性格的に素直なタイプではありました。
教え手の言う事を、文句を言わずにまずは素直に実行するのです。
なので、教えるのが上手い人に教わると伸びるし、教えるのが下手な人に教わると全然伸びないのです。
勉強はそれが顕著に表れていました。
私は受験指導をしているので分かりますが、
中学の時の先生たちは、学校の先生、塾の先生含め、全員上手くない先生でした。
なので、勉強が分からず、分からないとやる気が出ないので、全然勉強しませんでした。
中学のときはゲームばかりしていましたね。
結局、最後まで人並み程度か、それ以下の勉強しかせず、偏差値の低い公立高校に入学しました。
今では別の高校と統合され、なくなってしまったような学校です。
ですが、高校の時の数学科の先生たちはとても分かりやすい指導をしてくれていました。
そこで数学が分かるようになり、それをきっかに勉強に力を入れるようになります。
元がアホですし、塾にも行っていませんでしたが、コツコツと勉強を続け、
某私立に全て合格し、受からないと思って記念のつもりで受けた第1志望のとある国公立の大学に現役で合格しました。
過去問では全然うまくいってませんでしたが、当日の試験の相性がとても良く、運が良かったのです。
その偏差値の低い高校では、その国公立の大学の現役合格は、創立以来初の快挙だったそうです。
自らが大学に行きたいと思いながら、学費が払えず中退した過去を持つ母。
母は小さい頃から私に、「勉強しろ」「良い大学に入れ」「大学に入らないと良い企業に就職できない」と言い続けてきました。
いわば、私が国公立大学に入ることは母の夢でした。
他人から見れば、大学なんてただの通過点だしアホらしい夢だなと思うかもしれませんが、それが母にとっては悲願だったのです。
その夢が叶った瞬間でした。
私も当時、自分の番号を見た瞬間はかなり喜びましたが、母は泣き崩れて喜んでいました。
思えば、高校の頃が母の人生,そして私との関係性のピークだったと思います。
仕事で表彰、昇進。
家を購入。
大学合格。
自分で言うのもなんですが、私は母親の思い通りの素直な優しい子供に育ち、高校まで反抗期など一切ありませんでした。
全てが計画通りで、うまく回り始め、母は夢や希望にあふれていたのではないでしょうか。
ところで、父と2度離婚した母でしたが、
実はまだその後も、たまに父は母に会いに来ていました。
この時はさすがに、母はうっとうしがっていましたが、
ただ、今後お金が必要になった時に助けてくれるかもしれないということで、つなぎとめていたようです。
そして、私も大概のお人よしだったので、あれだけのことがあったにも関わらず、父を暖かく迎え入れるという。
今なら間違いなくボロカス言いますが、当時はとにかく温室育ちのお人よしで、人を疑うということを知らなかった時代でした。
さて大学入学、この時がまさに入学金を含めた学費、大きなお金が必要なときです。
母は年収が上がった、貯金が出来るようになったと言っても、以前と比較しての話であって、
決して余裕のある暮らしが出来るような稼ぎではありません。
しかも、家のローンもあります。
後々知ったのですが、これが結構な額でした。
父が信頼を回復するなら、まさにここが最後のチャンスでしょう。
皆さん父はどうしたと思いますか?
私の学費を払ったと思いますか?
答えは皆さんの予想通りです。
母が父に大学の費用を払ってくれないかと懇願すると、父は私と話かどこまで本気か聞き出すと言い出しました。
今なら、何をエラそうに、と思いますが、当時はお金をもらう側の弱い立場。
母を助けるつもりで、素直に2人きりで話をします。
「なんで大学に行くんだ?」とか「本当にやれるのか?」とか、ごちゃごちゃと難癖をつけ、
「で、払ってくれるの?」と私が核心をついた質問をすると、「それはお母さんと相談する」と話を反らします。
結局私と話し合った後、母に「大学の学費は払わない」と伝えました。
当たり前なんです。
最初から払う気などあるわけがありません。
赤ちゃんの頃からろくに金を入れず、私利私欲のために使ってきた男が、たいして会ってもいない息子のために大金を払うわけがありません。
クズはどこまでいってもクズなのです。
母はこれだけ痛い目にあってもまだ学習できていなかったのです。
母は「自分は人を疑うタイプだ」と日頃から言っていましたが、今の私から言わせれば全然お人よしです。
だから、その母に育てられた私も当時はとんだお人よしだったのです。
結局、母は貯金を崩し、大学の費用を払うことになりました。
これを機に、メルヘン親子はようやくこの父親の無価値さを知り、以降一切会うことはなくなりました。
今どうしているか全く知りません。それこそとっくに死んでいるのかもしれませんね。
先ほど高校時代が母のピークだと書きました。
ということは、ここからは下がっていくということです。
大学入学以降は、母と私の関係性は徐々に悪くなっていきます。
私は大学の頃から、母の言動に違和感を覚えるようになりました。
それが何のなのか当時はハッキリと言葉では表せませんでしたが、社会に出てから徐々に気づいていくことになります。
大学を卒業し、私はとある企業に就職します。
その企業では、勤務先を東京か大阪か選べましたが、会社としては東京を推奨していました。
研修も東京で行われました。
その時、初めて実家を出て1人暮らしをしたのですが、1人で自由に暮らす開放感を感じることができました。
家にいると何となく居心地が悪く、このまま母と一緒に暮らしても発展性がないというのは感じていましたので、
私は東京で1人で暮らすことを決意しました。
しかし・・・。
高校のときに、母がマイホームをローンで購入しましたね。
実はあの返済計画に、私の支払いが勝手に組み込まれていたのです。
しかも半分も。
この事実を、私が東京で暮らすと宣言したときに、伝えられました。
私は新入社員にして、突然、望んでもいない1000万をこえる借金を抱えることになったのです。
聞けば、私が高校生のときに「一緒に支払ってくれる?」と聞いたら、「うん」て言ってたとのことです。
高校生のときに、しかも脳内お花畑だった私に、ローンの重さなんて分かるはずがありません。
ただの誘導尋問です。
東京で自分の家の家賃を払って、しかも実家の高額なローンを同時に払うなんて、社会に出たばかりの私が決心できるわけがありません。
いや稼げるようになってからでも、そんな無駄なことを選択したかどうか・・・。
というか、もはやこんな状況では、結婚も計画しづらいですよね。
まだこの先仕事がどうなるかも分らないのに、
結婚して、新居を構えて、嫁と子供を養いながら、新居のローンと実家のローンを払い続ける?
キツイですね。
この時私は、「人の人生をなんだと思っている?」とかなり怒りましたが、もうどうしようもありません。
母は「じゃあ自分で払う」とは言っていましたが、母に定年後も借金を背負わせるわけにもいきませんし、自分で払うとは言っても何のアテもないのは明らかでした。
結局、選択肢がなくなった私は、東京暮らしをあきらめ、実家暮らしで大阪の職場に勤務することになりました。
ここで私の母への信用度はかなり下がりました。
母のロジックとしては、家を購入しておけば財産になるのだから無理をしてでも支払う価値はある、とのことでした。
しかし、それは本来私が決めることです。
このように母は、自分が良いと思うものは他人にとっても良いと思い込む傾向があり、勝手に判断して推し進めてしまうことが多々ありました。
ここからずっと母と一緒に暮らしていくことになるのですが、長年一緒に暮らしていると、母の短所が徐々に見えてきます。
まず、母は人に寄り添うことが出来ない人でした。
母は私が悩んでいると、いつも
「世の中そんなものだ」と切り捨てた言葉や、
「前向きに考えて忘れればいい」というありふれた言葉を単発で放つだけでした。
子供が悩んでいる姿を見たくない、暗い雰囲気を早く終わらせたいという気持ちが強かったのでしょう。
しかし、こういった向き合わない姿勢を続けていれば、相手からの信用はなくなっていきます。
私は大学時代、人間関係で悩み、精神を病んだことがあります。
診断はされてませんが、間違いなくうつ病だったと思います。
この時も、母は責めてばかりで心の支えにはなりませんでした。
また、母はこだわりが強く、すぐに人を責める傾向があり、思った事を口にするタイプでした。
「○○の部分を直せ。」「もっと○○しなきゃダメだ。」「そんなんで大丈夫? もっとしっかりしなきゃ。」
母がそれだけ出来た人かというと全くそんなことはなく、むしろ出来ない事の方が多かったのですが、
自分の事は棚にあげ、人には完璧を求めたり、人を責めたり、自分の思い通りにならないと嫌味を言ったりします。
責められてばかりで気分の良い人間などいるわけがありません。
相手を責めるということは、相手も責めてくるようになるのは必然です。
憎しみあい、喧嘩するようにになります。
黙っていれば円滑に進むものを、思った事を口にしなきゃ気が済まないようで、
それが発端となり、必ず喧嘩になります。
特に30代の頃は、毎日のように喧嘩していました。
大声で怒鳴り合ったときも何度もあります。
また、母は自分の話ばかりする人でした。
何せ会話をすると、最終的には自分の話や、自分の興味がある話に持っていきます。
何か言いたいことがあって会話をしかけているのに、その話を聞くことなく、
会話のキーワードだけ切りとって、全く関係のない話をしたり、自分の話に持っていきます。
こういった部分は、普段から優しい人であれば笑って済ませられる部分ですが、
先ほどの通り可愛げのない人がこうだと、だんだん呆れてきます。
自分にしか興味がないのだろうと感じるようにもなります。
しだいに母との会話に興味がなくなり、話を聞き流すようになり、日に日に会話がなくなっていきました。
あの時、東京で暮らしていれば、まだ良いイメージの母で終えれたのでしょうが、
一緒に暮らしていると どんどん悪いところが見えてきて、最終的に私は母を嫌いになってしまいました。
家のローンを支払い終えたのは、30代半ば。
ここで1人暮らしをすることも考えましたが、母は定年を迎えた年金暮らし。
今の年金なんてたいした額ではありませんし、母はそれほど貯金もありません。
自分1人では生活費を払えないと言われていました。
それに、もういい年でいつ病気になって倒れるか分からないので、そうなると結局戻ってこなければなりません。
1人暮らしをすると言っても、もうこの時は結婚をする気もありませんでしたし、
飼い猫のチロは母に懐き、同じく飼い猫のツグミは私に懐いていたので、私が1人暮らしをすると離れ離れになる上、猫にとって引っ越しはストレスです。
しかも、半分の額も支払ったばかりの家なのに、そこを捨てて、別でまた家賃を払い続けるというのもよく分からない状況です。
ただ母と離れたいという動機だけで出ていくにはあまりにもデメリットが多いわけです。
というわけで、仕方なく実家暮らしを継続することになります。
小さい頃のものを除けば、私は母と写った写真がほとんどありません。
それどころか、母単体を写した写真もありません。
スマホがない頃は私も母も写真に興味がありませんでしたし、
スマホを購入した頃には私は母を嫌いになっていたので、全く母を撮影することはありませんでした。
ですが、そんな中、奇跡的に私と母が並んで映った写真が1枚だけありました。
それがメリーを引き取ったときの写真です。
自分で撮った写真ではなく、保護団体の方が撮ってくれた写真ですね。
ちょうどこの頃に、母の体調が徐々に悪くなってきます。
母は、日頃から機敏に動いていました。
見た目が若く見えるのもありますが、60代になっても背筋をピンと伸ばしてシャキシャキ動き、ハキハキとしゃべっていたので、よく40代~50代に間違えられていました。
しかし、そんな母も70代にもなると徐々に動きが悪くなっていき、
次第に、階段を上るのも一苦労するようになり、趣味だったウォーキングにも行かなくなりました。
健康的だった体も、やつれてガリガリになり、
とある日から、ソファに座り込んで、「しんどい・・・」と言うようになりました。
病院へ行くように言っていましたが、面倒くさかったのか、怖かったのか、なかなか病院へ行きませんでした。
そして、2年前のある日。
とうとう耐えられないほど辛くなった母は、ようやく病院へ行きました。
極度の貧血状態で、よくここまで耐えられたものだと医者から言われたそうです。
そして、その日から精密検査が行われ、体調不良の原因が発覚しました。
医者から告げられた病名は、「膀胱癌(ぼうこうがん)」。
すでにステージⅣの末期。
余命は1~2年と言われました。
これを医者から聞いた時、私は、心臓がバクバクしていたのを覚えています。
いくら嫌いとはいっても、たった1人の母親です。
死の宣告を受けて、ショックを受けないわけにはいかなかったようです。
しかし、私にはこの時期、複雑な気持ちもありました。
その後、母はたまに1週間ほど入院していたのですが、その時私は1人で過ごすことになります。
この時は寂しいという思いよりも、開放感の方が勝っていました。
色々と時間は取られますが、誰に責められることもなく、自分の思う通りに出来る事が楽で仕方がありませんでした。
母は退院して家に帰ってくると、
私が効率良く家事をするために色々なものを配置変えをしていたのですが、その日のうちに自分のお気に入りの位置に戻し、
猫砂がちらからないように、猫のトイレに仕切りを作ったのですが、それも何の迷いもなく破壊し、
また 責める言葉をちょくちょく投げかけてくる日が始まります。
病気で弱ってからかなりまるくなっていましたが、それでも何か言わなきゃ気が済まないようです。
私との関係性は、高校以前のときのように戻ることはありませんでした。
次第に病気の母にも慣れてしまい、このままいけば亡くなっても何も感じないかもしれないと思うようになりました。
癌の治療は全て効果がなく、余命1~2年と言われてから、およそ2年が経ちました。
母の動きは日に日に悪くなり、少し歩くだけでも疲れるようになりました。
そして、今年6月末に急激に体調が悪化。
足が痛み、呼吸も苦しいと言っていました。
膀胱付近の癌が進路を塞いで足の血流を悪くし、癌が肺に転移したのです。
1週間入院し症状を和らげる処置を行ってもらい退院となりました。
病院へ迎えにいきましたが、母は1歩進むだけで体力のほとんどを消耗するほど、歩くことが困難になっていました。
結局、症状が和らいだのは病院にいたときだけで、家に帰ってくると痛くてしんどくてソファに座りっぱなしで何もできませんでした。
ご飯もほとんど食べていませんでした。
そして、7月上旬。
ついに、母は立つことが出来なくなりました。
リンパが流れず足はパンパンに膨れ上がっていました。
それから再び入院。
精密検査の結果、医師からは余命3週間と言われました。
もう出来る事は何もないので、最後を迎える場所を決めてほしいと言われました。
緩和ケア病棟という病院で、看護師に介護をしてもらいながら、医療器具や薬を使って苦しみを最小限にしながら最後を迎えるか。
それとも、自宅で私が介護をしながら最期を迎えるか。
私は母の希望に合わせると言いました。
母は私に迷惑はかけたくないと言い、緩和ケア病棟を選択しました。
母がそれほど長くないと知った私は、頻繁に面会に行くようにしました。
ここから多忙になりました。
立ち上がれなくなって入院してから1週間。
母は緩和ケア病棟へ移ります。
このとき、母はとうとう寝たきりになり、しゃべる事も困難になっていました。
もう間もなくであることが明らかでした。
先ほどの医師は、余命3週間(つまりこの時点であと2週間)と言っていましたが、
緩和ケア病棟の医師は、余命1週間と言っていました。
私もそんなものだろうと直感しました。
いつ亡くなってもおかしくないので、この日からは私は毎日面会に行くようにしました。
緩和ケア病棟の初日に、言い方がキツい看護師がいて、ちょっと気になっていました。
看護師本人に悪気はないようですが、私が気になるくらいなので、間違いなく母とは合わないだろうと思いました。
最後くらいはストレスなく過ごしてもらいたいので、私は、担当を変えてくれないかと代表の看護師さんに頼みました。
とても理解のある方で、すぐに担当を変えてくれました。
他の看護師さんはとても優しい方ばかりでした。
母は毎日、私が面会にくると、
「ありがとう。」
「やっぱり子供の顔を見ると1番安心する。」
「優しい息子で良かった。」
と、言いました。
緩和ケア病棟にきて3日目くらいのときに、母宛てに手紙が届きました。
差出人は、母のお姉さんからでした。
そう、この時のお姉さんです。
母は4人兄弟の末っ子。
兄が1人、姉が2人います。
手紙の内容は、「もう1人の姉が亡くなった」というものでした。
たまたま同じような時期に、母のもう1人のお姉さんが病気で、先に亡くなっていたのです。
次の日の朝に、私は手紙を持っていき、病院で母に渡しました。
ところで、母はプライドが高く、病気になったことを友達にも近所にも一切知らせませんでした。
私にも、誰にも言わないで、と強く念を押していました。
死んでも誰にも知らせなくていいし、葬儀もしなくていいと言っていました。
手紙にはお姉さんの携帯番号が書かれていましたが、そんな母なので、連絡はしないだろうと思っていました。
すでに話すのが困難な状態で、一言発するのがやっとのレベルでしたので、電話をすれば病気であることがすぐに分かってしまい、ごまかしようもありません。
ですが一応、「お姉さんへの連絡はどうする?」と聞いたところ、
心境の変化があったようで、お姉さんには連絡すると言ったのです。
以前の母では考えられないことですが、それくらい弱っていたということなのでしょう。
母が電話で話すのは困難なので、字で書いてもらい、私が電話してその内容をお姉さんに伝えることにしました。
お姉さんに電話をして、手紙の内容を読んだこと、私も病気と闘っている、といった内容を伝えました。
お姉さんは、それを聞いて泣いていました。
その時に私もお姉さんと話し、スペースワールドに一緒にいたことを話され、ようやくあの時の人かと私の中で一致しました。
お姉さんは九州住まいですが、「母に面会しにいきたい」と言ってくれました。
しかし、母は「それは絶対嫌だ」と言いました。
弱っている姿を見られたくなかったのです。
母とお姉さんは、生きているうちに会う事は叶いませんでしたが、
その後、お姉さんは毎日連絡をくれるようになり、母の状態を聞いてくれました。
母は1日経つごとに、見て明らかなほど弱っていきました。
緩和ケア病棟にきて6日目くらいには、話すのが困難だった状態から、ついに声を発することすら出来なくなりました。
体はガリガリなのに、足だけはその何倍にも膨れ上がり、肺に転移した癌が呼吸を困難にしていました。
その日「明日も朝来るよ。」
と言うと、母はニコッと笑って手を振りました。
これが母との最後の会話となりました。
7月23日(火)の朝4時。
病院から電話がかかってきました。
「呼んでも反応がありません。呼吸はしていますし、血圧も低くはありませんし、脈もありますが。」
と看護師の方が話してくれました。
意識がなくなったのです。
そしてこうなると、もう意識が戻らない可能性が高いとのことでした。
私は眠い体を起こしながら、急いで病院へ。
病室へいくと、母はまるで眠っているだけかのように見えました。
しかし、確かに声をかけても全く反応がありませんでした。
母は、喉をゼーゼー,ゴロゴロと鳴らしながら呼吸していました。
タンが絡んだ状態で、そのまま呼吸をしたことを想像してみてください。
まさにそんな風に、母はずっと苦しそうに呼吸をしていました。
これは、死前喘鳴(しぜんぜんめい)という言うそうで、
死亡直前に、気道内分泌物の貯留により生じ、
呼吸時に咽頭や喉頭部の分泌物が振動してそう聞こえるらしいです。
私は一応、九州のお姉さんに意識がなくなったことをメールで送っておきました。
それから1時間,2時間と様子を見ましたが、反応もなければ変化もありません。
意識が亡くなってからどれくらいで死ぬかは人によって全然違うそうで、
数時間のこともあれば、数日かかることもあるそうです。
犬や猫たちにエサをあげなければならない時間だったので、私は一旦帰ることにしました。
そして、午前11時56分。
再び病院から電話がかかってきました。
「まだ脈はありますが、酸素と血圧が低下してきました。」
と言われました。
私は昼ご飯を食べていたので、昼ご飯を済ませ、一通りの家事をしてから病院へ向かいました。
病院までは30分かかるので、到着したのは13時前くらいだったと思います。
病室へ着いたとき、すでに母は亡くなっていました。
呼吸はしておらず、脈はなく、心臓も動いていませんでした。
13時50分。
医師が死亡の確認を行いました。
77歳でした。
その後、遺体をお迎えにきてもらうよう、葬儀屋に電話をかけました。
18時に迎えに来てくれることになりました。
私はずっと母の死は覚悟していたので、母との仲が良くないこともあり、
母が死んでも何も感じないかもしれないと思っていましたが、実際、当日涙は一滴も流しませんでした。
悲しいという気持ちも自分では感じていなかったように思います。
しかし・・・。
14時頃から、突然、息が苦しくなりました。
空気を吸っても吸っても、息が苦しいのです。
過換気症候群。
いわゆる「過呼吸」です。
過呼吸は、大学時代に1度経験したことがありますが、社会に出てからは一度もありません。
過呼吸は精神的なストレスが原因で起こると言われています。
母が死んだことが原因であることは明らかでした。
母が死んで、何も感じないわけがなかったのです。
しかし、実はその時はなぜ息苦しいのか、自分では分かっていませんでした。
まだ症状が軽く、なんかこの病院酸素薄いな、くらいに思っていました。
その頃、ふと携帯を見ると一通のメールが届いているのに気が付きました。
お姉さんからでした。
「今、奈良に向かっています。」
びっくりしました。
そういうつもりでメールを送ったわけではなく、ただのお知らせで送ったつもりでしたが、
なんとお姉さんは、緊急で新幹線に乗って、九州から奈良に向かってくれていたのです。
お姉さんは17時頃到着する予定でした。
それまでに、私は何度か過呼吸状態になりました。
しかし、やはり自分では過呼吸という認識はなく、なんか今日酸素が薄く感じるなくらいの認識でした。
予定通り、17時にお姉さんが病院に到着。
死んだ母と対面しました。
私が高校の時以来、およそ30年ぶりの再会です。
お姉さんは80代でしたが、自分の足で歩き、お元気そうでした。
お姉さんは涙を流しながら、「頑張ったね。」「お疲れ様。」と声をかけていました。
18時。
葬儀屋が遺体を迎えにきてくれました。
私とお姉さんは、遺体の安置所まで同行しました。
遺体の安置所と言っても、とても綺麗な一室に母の遺体が入った棺が1つ置かれ、机や飾りつけがあるだけです。
とても爽やかでよい場所です。
その後、そこで今後の打ち合わせをしました。
母の希望で、葬儀は行いません。
火葬式です。
遺体を安置し、火葬が可能な日に火葬場に連れて行き、火葬します。
私が選んだ葬儀屋は、安置所でペットとの面会が可能でした。
チロは、母にとても懐いており、1日中ベッタリくっついていました。
母が入院したときは、寂しそうにして、「アオーッ。アオーッ」と母を呼んでいるかのような悲しげな声を出していました。
なので、最後にチロと母を会わせたいと思いました。
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