私の言葉でしか伝わらないこともあるのだと思う | 狭間和恵の人生を創造する数秘とコンサル【野生児的人生の歩き方】東京・品川
多くを語らなくなってどのくらいが経つのだろう。
私と友人知人の方は、私が無口である、と言う印象は無いと思う。
実際、無口じゃないしね(笑)


ただ、なんていうか。
通じる程度で止める様になって、長い。


でもね。
なんか、その辺りもどこかへ流れていったと言うか、なんていうんだろうね。
真っ赤なバケツの液体に水を注ぐと、そのうち溢れて色がどんどん薄くなっていくじゃない?
そんな感じに、その「通じる程度で止める」が薄まってきました。


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なくなったわけじゃないけど、限りなく薄くなってきているな~と思うのです。
そもそも、通じる程度で、と言うのだって、私が決めた境界線であるのだし。
感覚としてはどうであれ、このあたりまでで~と、止めなくて良いかな。と、思う様になってきた。



余計なお世話と言うこともあるし、聞きたくないこともあるわけで、だれかれ構わずいつでもなんでも話すというのも、これまた違うとも思っているけれど。


仕事の中では、【全部出し】で行こうと。
そう思いました。


途中までで止める様になったのには、経験からくるもの、強みなどのアドバイスの中のもの、いろんな経緯がありますが。
良く良く思い返してみると、経験から話さなくなったエリアの事が、あるタイミングで上塗りされて来た感じはどうやらあって。


「やっぱり相手が分かるところまでしか話すもんじゃないんだな」


と。そう思ってきた。



誰かが、その同じ事を言っている時に、その人は言っても良い人、私は言ったらダメな人。みたいに勝手に線を引いてたな~と思うのです。


その人が専門家を名乗っていたらなおさらで。

私は、たとえ同じ内容が分かったとしても、専門家じゃないんだし、言うもんじゃない。って。


それは、専門家が言えば周りの人は素直に聞くけれど、私が言ってもスルーされる、と言う様な思いもあった。
実際そうだったことも数え切れない。
でも、だったらなんだというのだろう。
専門家かどうかは関係あるんだろうか。


ただ、分かることや知ってる事を、そのまま分かる、知ってる、と言うだけだというのに。




思えば、他にもそんなことがこれまでにあった。
自分の周りに、私から見てとても強くそれを出したがっている人がいた時、一歩下がるクセが付いていた。



これ、私得意です!


私より、誰かが先にそれを言ったら、私も得意だよ、と思っても黙るクセが。
いや、先ではなくてもそうだった。
できるよ、わかるよ、得意だよ、とやっていても、後から誰かが「私も得意です!私が出来ます!!」と、アピールされると一歩下がる。

あ、じゃあ貴女がどーぞ。と。


生きて来た道筋でついたであろクセ。


私の目には、それが私であろうが別の人であろうが、周りにはなんの関係もない様に見えた。
だったら、よりアピールしたい人に別に良いよ、と譲っていいか、と。



でも、果たしてそうだったのだろうか?
私だったから、そこに賛同したり付いてきたり理解したりした人もいたのかもしれないのではないか?
私ではない、その人ではダメだった人もいたのかもしれないのに。


そうやって、芽の出たものを放置して腐らせてきた事がどれだけあるのだろう。


私の味方の様な装いで、結果的に手柄をさらっていく事をどれだけ許してきたのだろう。



なんか、恋のキューピッドのはずが、気付いたら好きな人とその子がカップルになってた、みたいな。
これは、実際には無かったけどね(笑)



なんかきっと怖かったんだろうね。
私なりの角の立たない処世術だったのだろう。

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でも、それももういいかな。
と、今思う。

出来ることは出来るんだし、わかることはわかる。
それを受け取るか受け取らないかは、私の問題ではない。


私が何者でもなくても、私の言葉でしか伝わらないことは、きっとあるのだから。


2016年という今は、一体どんな「時」なんだろうか。
私の中では、人生の大半を占めてきた脈々と続いてきた事が、端からどんどん崩れていく。
人生の折り返しを過ぎた、今この時期に。


これからがどんな未来でも、今までがどんな過去でも、今の連続が人生となって行く。
たった今からこの先が。



それを止める権利は誰にもないし、作っていくのは自分なんだよね。