ローザ・ルクセンブルグ
れいわ/いのちの内紛が終わらないようだ。
私には何が問題とされているのか詳細はよくわからないが、どうやら山本太郎イズム「与党も野党も茶番」路線の継承か、「他党との協力か」で意見がわかれているようだ。
直近の問題は、2月の衆院選挙に大敗したことに始まり、イスラエル渡航を問題視された多ケ谷パージ事件を機に党内の確執が深化したことだろう。
多ケ谷氏は他党との調整、またイスラエルとの調整の意味で渡航したとのこであったが、件に限らず従来から執行部との意見の相違があったようだ。
人間は大きな失敗や不条理に直面すると「犯人捜し」を始めるものだ。
明確な犯人がいなくても誰かに責任を負わせようとする心理になってしまう。(心理学では「スケープゴーティング」や「自己防衛的帰属」というようだ)
そのような雰囲気のなか、パージされた多ケ谷氏の秘書給与問題の告発(難クセ)によりテンションが高まった。
私個人は多ケ谷氏をパージしたのはやり過ぎだったと考えている。当時もそのことをX上で表明したが、事件の過程で山本太郎代表が「調整役なんかいらない」等と発言したのも問題だと思っていた。
ご存じの方もいると思うが、私はX上で最も多くシオニズムやガザ虐殺批判を繰り返すアカウントの一つで、そのことでXからアルゴリズム規制を喰らったほどだが(私の投稿は人々に届かないように操作されている)、そんな私でも「多ケ谷パージ」はやり過ぎだと考えている。
「反与野党茶番 路線」に関しても、私はバラモン・リベラルを批判し続ける急先鋒といったところだが(笑)、私は、「調整役」や「他党との協力」派はありがたい存在だと思っている。
どんなに急進的な集団であっても、調整や交渉のルートは残しておかないといけないからだ。
「左翼の内ゲバ」と一言で評してしまえば元も子もないが、左翼は「人間の知性・理性が自然を凌駕する」と考えるため、際限のない理性同士の衝突が起こる。
世の中は理性のみで解決できるようになどできていないのにだ。
左翼の内ゲバは歴史が長い。
今日は、元祖「与野党茶番批判派」とも呼べるローザ・ルクセンブルグについて書きたい。
◇◇◇◇◇
ローザ・ルクセンブルグは、1900年代初頭に活躍したドイツのマルクス主義学者/法学博士/活動家で、一級の弁士でもあった。
ローザ・ルクセンブルグは1871年にポーランドのユダヤ人家庭に生まれた。
1889年代、18歳で、ロシア帝国の弾圧を逃れるためスイスに亡命した。
1893年にはスイスにて、夫ヨギヘスとともに、ポーランド王国社会民主党(SDKP)を創設する。
革命活動を続けるなか、1898年にヨーロッパ社会主義の中核であったドイツ社会民主党(SPD)に入党するためドイツ・ベルリンに移住した。
SPDについては、前身のドイツ社会主義労働者党(1875年創設)はマルクス自身が、またドイツ社民党に改名した後(1891年)にはエンゲルスが直々に綱領草案に関わった、由緒ある党だ。
しかし、帝政ドイツでも社会主義者への弾圧・違法化が常態化していた。
SPD発足当時の議員は十数名しかいなかったが、徐々に党勢が拡大し、ルクセンブルグが入党した頃には第二インターナショナル最大の組織になっていた。
1899年、SPDの幹部エドゥアルト・ベルンシュタインは『社会主義の前提と社会民主党の任務』を出版し、マルクス主義の革命論を修正した。
ベルンシュタインは、資本主義はマルクスが予想したような崩壊には向かわず、むしろ資本主義の発展と民主主義の拡大の中で、労働者の生活を改善しながら社会主義へ漸進的に移行できると主張した。
SPDは、革命による資本主義の打倒を目指すのではなく、議会制民主主義下での議会活動や労働組合運動を通じて、既存の経済体制の中で社会改革を積み重ねるべきだと路線変更した。

ルクセンブルグの「社会改革か革命か」
これに対し、当時28歳だったローザ・ルクセンブルクは、ベルンシュタインの「修正主義」を激しく批判した。
彼女にとって、資本主義の枠内での改良を社会主義への道とすることは、労働者階級による資本主義の変革という社会民主主義の本来の目的を放棄することだった。
ルクセンブルクは同年『社会改革か革命か』を発表、ベルンシュタインを徹底的に批判し、結果的に党にこの修正路線を非採用とさせた。
これによって彼女は、ドイツ社会民主党内の左派を代表する理論家として知られるようになった。
彼女は、党の指導部が妥協的すぎると考え対立した。党大会では何年も続けて演説を行い、修正主義的な党指導部を批判した。正統派マルクス主義者としての立場を貫いた。
妥協を許さない原理主義、「反与野党茶番派」の誕生である。
(*勘違いしないでほしいが、筆者自身も反与野党茶番派であるし、かのカレツキが影響を受けたルクセンブルグはスターの1人だと認識している )
SPD内でも「調整派=中央派」と「反与野党茶番派=急進左派」の争いがあったのだ。
その後、急進左派ルクセンブルグは、皇帝を侮辱し、ゼネストに大衆を扇動するなどの過激な言論活動により何度も逮捕・投獄されているが、民衆からの支持は驚くほど厚かった。

1904 年にアムステルダムで開催された第二インターナショナルの大会におけるルクセンブルク。唯一の女性だ(中央付近、リボンをつけている)
https://en.wikipedia.org/wiki/Rosa_Luxemburg

1907年、社会主義大会で演説を行うルクセンブルグ
https://www.t-online.de/nachrichten/panorama/kriminalitaet/id_87101510/rosa-luxemburg-wer-steckt-hinter-der-ermordung-der-roten-ikone-.html
1900年代、ルクセンブルグは党代表として国際会議にも多数出席している。
1907年にロンドンで開催されたロシア社会民主労働党の第5回党大会にはポーランド代表として出席し、レーニンと対面した。
第二インターナショナルのシュトゥットガルト大会で採択された戦争反対決議案(反戦のために全ヨーロッパ労働者階級の結束を求めるもの)は、ルクセンブルグとレーニンによって起草されたものだった。
多数派であった中央派(調整派)と急進左派(反与野党茶番派)の対立は1910年頃から激しくなり、ルクセンブルクらが街頭運動を大衆ストライキに発展させて革命的状況を作り出そうとするのを、幹部のカウツキーらは「一揆主義」と批判した。
中央派(調整派)はソビエト権力と、ソ連型革命による労働者評議会制を批判し、民主主義による社会主義の実現を主張した。
一方で急進左派(反与野党茶番派)は、ソビエト政権の議会弾圧やテロの手法、民主的自由の廃止などの独裁的政治を批判しながらも、革命によるプロレタリア独裁と労働者評議会制を望んでいた。

カール・カウツキー(1904年)、後にナチスにより殺害された。
1912年の帝国議会選挙では社民党は得票率34.8%を獲得して得票の上でも議席の上でも第1党となっていた。
1914年、第一次世界大戦が始まると、日和見主義のSPD指導部は帝国政府の戦争遂行に協力し、戦時国債にも賛成してしまう。
これに対してルクセンブルクら急進左派=反与野党茶番派は強く反発した。
「労働者は自国の資本家・政府のために、他国の労働者を殺すべきではない」という立場をとった。
彼女にとって、「ドイツ労働者 vs フランス労働者」という構図そのものが、帝国主義によって作られたものだった。
本来は、「ドイツ労働者+フランス労働者 vs ドイツ資本家+フランス資本家」という階級対立であるべきだ、という考えだった。
彼女の有名な言葉、「帝国主義か社会主義か」という二者択一は、戦争を止めることだけが目的なのではなく、「戦争を生み出す資本主義・帝国主義そのものを変えなければ、戦争は再び起きる」ことを示す。
1915年、ルクセンブルクら反与野党茶番派はSPD内の分派「スパルタクス団」を組織し、反戦運動を展開、カール・リープクネヒトらとともにSPD主流派を批判した。
なお、「スパルタクス団」の名称は、ローマ時代の奴隷反乱軍から。歴史上の組織という意味で、どことなく「新選組」とも通じる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%91%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%82%AF%E3%82%B9%E5%9B%A3

カール・リープクネヒト。ルクセンブルグの盟友でもあり、SPD立ち上げ時からの幹部だ
戦争への対応をめぐる対立はとうとうSPDを分裂させた。
1917年には反戦派=与野党茶番派を中心に「独立社会民主党(USPD)」が結成され、スパルタクス団も参加した。
1917年2月にロシアで革命が発生したこともあって、ドイツでも革命気運が高まっていた。
大戦末期の1918年11月、戦争に疲弊したドイツ軍水兵らが起こした反乱によって帝政が崩壊すると、SPDのフリードリヒ・エーベルトらは新政府を主導した。
「ドイツ革命」と呼ばれた。
これはUSPDやスパルタクス団にとっては予想外の出来事であった。
しかし革命のさらなる急進化を恐れたSPD指導部は、元帝国軍部や義勇軍(フライコール)と協力して、急進的な労働者運動を弾圧する道を選んだ。
革命後に、調整派SPDが旧帝政派と結託し、反与野党茶番派を暴力により弾圧したのだ。
しかし次いで起こったのが、反与野党茶番派の更なる分裂だった。
1919年1月1日、ローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトは、USPD内の革命派などとともに、ドイツ共産党(KPD)を結成した。
USPDの主流派とは「反戦」を軸に手を結んでいたが、プロレタリアート革命・独裁を否定していたため、袂を分かつほかなかった。
内ゲバに次ぐ内ゲバが左翼の本質だ。
左翼は、理念こそを自身の存在理由としているため、折れることはないのだ。
ルクセンブルグは共産党の結党に際し、「革命は大衆自身の手によって行われるべきものであり、下からの階級闘争を通じて、労働者たちが自らの行動と経験を通じて権力を握るべきだ」と演説した。
結果、調整派SPD 対 反与野党茶番派KPDとの本格的な争いに発展した。
KPDは、反乱を起こすことでソビエト方式の共和国の樹立を目指した。
エーベルト率いるSPD暫定政府の打倒、反革命軍の武装解除、そしてすべての権力を労働者・兵士の評議会に移譲することを求めた。
1919年1月初頭から、KPDに同調する労働者と兵士たちは、帝政打倒にとどまらない政治・経済の全面的民主化と革命の継続を求めて、ベルリンで武装蜂起(スパルタクス蜂起)を起こした。
エーベルト率いるSPD政府は、帝政崩壊後のドイツで議会制民主主義(ワイマール共和国) の樹立を目指していた。
一方、KPD(ドイツ共産党)はソビエト型のレーテ(評議会)による革命を主張し、武装蜂起に至ったのだ。

1919年、ベルリンでのスパルタクス団の蜂起。武装した労働者たち
これに対し、SPD政府は帝政ドイツの退役軍人で結成された右派ナショナリスト義勇軍「フライコール(Freikorps=free corps=自由軍団)」を投入し、蜂起を武力で鎮圧。多くの処刑・殺害が行われた。
スパルタクス蜂起鎮圧の死者は4500~5000人とされる。
3か月前のドイツ帝国に対するドイツ革命における死者が30人にも満たなかったことから、SPDとフライコールの弾圧、虐殺がいかに徹底し、凄惨だったかがわかる。

1919年、鎮圧した反共右派義勇軍「フライコール」、10年後にナチスの権力掌握にも協力する
https://en.wikipedia.org/wiki/Freikorps
これは、左翼同士の内戦であり、調整派SPDが「革命」よりも軍事力を背景にした「秩序」を選んだ瞬間であった。
1月15日、ルクセンブルクとリープクネヒトは、政府側と結託したフライコール部隊に逮捕・監禁された後に殴打のうえ、殺害された。
ルクセンブルグの遺体はベルリンのランドヴェーア運河に遺棄され行方不明となった。
ドイツ共産党KPD結党からわずか2週間のことだった。
フライコールは「ルクセンブルグは暴徒に襲われ殺害された」と虚偽の報告を行った。
遺体は半年後に発見され、検死報告書によると「銃剣での殴打による重度の頭蓋骨損傷」があったとされている。直接的な死因は拳銃による至近距離からの射撃だった。
実行犯は裁かれることなく、15年後にできたナチス政権では軍将校として昇進している。1930年代のフライコールはナチスに協力し共産主義者や社会主義者の弾圧を行った。

ルクセンブルクの遺体が投げ込まれたランドヴェーア運河にある記念碑
1919年のスパルタクス蜂起で数千人が犠牲になったこの内乱は、ドイツにとって1848年革命=三月革命(死者約200人)以来の大規模な武力衝突だった。
その後もバイエルン・レーテ共和国の鎮圧(1919年4〜5月)、ミュンヘンでの戦闘とその後の報復、その他の地域での衝突により1919年を通じてドイツ各地で起きたゼネストや武装蜂起の鎮圧でうまれた死者数は数千人にのぼり、この内乱での死者数の合計は8000人前後と言われる。
帝政に対する革命による死者(30人以下)よりも、その後の左翼同士の主導権争いによる死者のほうが圧倒的に多かったのである。
後にKPDはSPDを主な敵対勢力と見なし、「社会ファシスト」と呼んだ。当然だろう。
民主主義を標榜する者たちに虐殺されたのだ。
そのSPDは現在、連立政権としてドイツ政治のかじ取りを行っている。
この事件は、かつてドイツ労働者運動の旗手だったSPDが、革命による社会主義の実現を目指す勢力から、議会制民主主義と資本主義の枠内での漸進的改革に軸足を移す、歴史的な分岐点となった。

フランクフルトのローザ・ルクセンブルク通りにあるグラフィティ絵画
これがローザ・ルクセンブルグとドイツ左翼の闘争の物語だ。
さて、何が言いたかったのか。
私が初めて「左翼の内ゲバ」を体験したのは、2017年末に「薔薇マーク」運動に参加していた際に、立憲民主党に妨害工作を仕掛けられた時だ。あの時「ああ、本当に左翼の内ゲバってあるんだなあ」と感心したものだ。
反与野党茶番派(急進派) vs 調整派、
「左翼とは内ゲバするもの」なのだ。
時には殺し合いに発展するので、十分に気をつけなければならない。
以上。
cargo
