このシリーズの前回までの記録はこちらで。
今回の目次はこうなる。
第二臨調のことを深掘りするはずが、「MRA(Moral Re-Armament=道徳再武装運動)- 第二臨調 - CIA」の深い関係に気づき、前回まで2回にわたって深掘りしてしまった。
今回もMRAについてとなる。
MRAに関する貴重な動画を見つけた。死ぬ間際の中曽根や渋沢雅英もコメントしている。
▼MRA 道徳再武装 現代史の裏側で (TBSテレビ 報道特集)
https://odysee.com/@kokera:7/tbs-moral-re-armament:3
報道によると、ジョン・フォスター・ダレス国務長官(CIAアレン・ダレスの兄)にMRAの役員が「日本人には共産主義が浸透しているが、必要な支援を行えば対応できる」と注進している公文書もあるようだ。

これもアメリカ国務省スジの対日工作の痕跡を示す傍証の一つになるだろう。
MRAが日本でもてはやされていた時代、1962年のMRA小田原の開所式には吉田茂らが駆けつけ、盛大に行われた。

MRA開所式における岸信介とKCIA部長の金ジョンピル
https://mrafoundation.or.jp/CD/CD40/HTML1/01/01I/01I.HTM
https://www.mrafoundation.or.jp/CD/ASIAC/MRA40E.pdf

MRAには、中曽根・瀬島龍三・児玉誉志夫と繋がるKCIA(大韓民国中央情報部)の金鍾泌(キム・ジョンピル)長官や、内調(内閣調査室)の初代室長、村井順もいた。(この二人は諜報分野のキーマンでもあるので詳しく後述する)
なお、金鍾泌は朴正煕政権のNo.2で、コリアゲートを調査した米議会フレイザー委員会でも明らかになったようにCIAの要請で統一教会を作った人物でもあり、国際勝共連合やAPACL、そして笹川良一や文鮮明とも密接に繋がる。
おそらく金鍾泌は1961年にMRAをモデルにして統一教会を編成したのではないだろうか。
これは下で紹介する大西敏博氏も同じ見立てのようだ。
それまで統一教会はいかがわしいセックス教団だったが、この時期を境に突然、反共主義や道徳的教義を持ち出すようになる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%9F%93%E6%B0%91%E5%9B%BD%E4%B8%AD%E5%A4%AE%E6%83%85%E5%A0%B1%E9%83%A8
MRAには極右スパイや魑魅魍魎が蠢いていた。
それだけではなく、MRAは左翼思想の改造のため労働組合の幹部にもテコ入れを行っている。
るいネットの大西敏博氏の文章を引用する。
https://satehate.exblog.jp/20495980/
https://honnoippo.com/2021-10-16
1953年、東芝の勤労部長と労組委員長が共にコーのMRA会議に参加。石川島播磨重工労組の柳沢委員長もこの会議に参加し、土光敏夫との「信頼関係」を築いた。
これが、日本全体の協調的労使関係の形成につながった。
ジャーナリストの大宅壮一は、『昭和怪物伝』に収録された右翼宗教団体・生長の家の教祖・谷口雅春についての文章の中で、MRAについて触れている。
世界旅行で私が得た大きな収穫の一つは、MRA(道徳再武装運動)というものの正体が非常によくわかったことである。戦後日本人で外国へ行ったものの中で、“MRAの招待”というのが大きなパーセンテージを占めている。
その中でも国会議員、地方議員、知事、市長などの公用族が多い。しかし比率からいって もっとも多いのは革新政党の議員や労組の幹部である。
かれらはわれもわれもとMRAの大会に出かけて行って何を得たであろうか。
(中略)スイスのコーというところに、MRAの夏期練成道場がある。これは、“道場”といっても…すばらしく豪しゃなホテルである。
世界一景色のいいところにある最高級のホテルで、世界の珍味を集めた料理を食って、“チェンジ”する、すなわち心を入れかえるのである。
階級闘争や有色人種運動の指導者が、資本家や白人に対する憎しみを捨てるのである。
近ごろの流行語で いえば“洗脳”だ。
中国では、革命に協力しない反動分子を“思想改造所”という監獄に入れて“洗脳”を行っているが、MRAでは、ありったけのぜいたくをさせることによって同じ目的を達しようというのである。ただしその手段が全然逆であるとともに、チェンジさせる方向も正反対である。
また大西氏の調査から次のようなこともわかった。
年に1回、スイスのコーで開かれているMRAの日米欧経済人円卓会議は、経団連の土光敏夫や奥田碩が代表を務めている。
経団連はMRAの別働隊であるとさえする見方もある。
戦後日本の政治家の中でMRAの影響を最も強烈に受けたのは、後に民社党(現在の民主党)に連なる社会党右派だった。
60年安保当時、東京のMRAハウスは既に自民、社会両党議員の交流の場にもなっていた。
日本社会党右派→民社党と移り、内閣総理大臣も務めた片山哲も、 戦後すぐにコーのMRA本部に詣でた一人だった。
片山は当時ろくに収入が無かったが、MRAに飛行機代を全額出してもらい、三井財閥の三井高維らご一行と 共に仲良くコーで開かれたMRA世界大会に夫婦で出席して、「MRAの機動部隊を日本に派遣されたい」などとおべんちゃらを言った。
https://satehate.exblog.jp/20495980/
1960年1月、CIAの支援のもと西尾末広や片山哲などが日本社会党を離党して新党・民主社会党(国民民主党の源流)が誕生する。
与党・自民党と野党第一党の社会党による55年体制のなかで、保守寄りの野党として独自の政策を掲げた。
民社党は新進党・民主党・希望の党を経て国民民主党になる。
その源流となる社会党右派/民社党の片山首相(社会党/民社党)がMRAだったのだ。

https://www.iofc.jp/about-ic/japan-asia/
社会党・片山哲内閣の大蔵大臣を務め、後に自民党に移籍した北村徳太郎議員もMRAだ。

1950年、北村徳次郎らが渡米、副大統領と会談
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%91%E5%BE%B3%E5%A4%AA%E9%83%8E

ヨーロッパ訪問の日本代表団一行を迎える西ドイツのコンラッド・アデナウアー首相(手前右)。(左から)北村徳太郎(国民民主党)、福田篤泰(自由党)、青木理三重県知事、中嶋勝治金属労組役員、中曽根康弘(国民民主党)(1950年)
https://y-fujita.com/wp-content/themes/fsite/pdf/nihonnoshinro_chap4-5_photograph.pdf
上記の国民民主党は今の国民民主党とは関係はない。
この(旧)国民民主党は後に改進党、日本民主党となり、1955年に自由党と合併し自由民主党となる。
なお、北村の作った(旧)国民民主党の最高委員長は苫米地義三で、彼は経団連理事であった。中曽根も国民民主党に在籍した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E6%B0%91%E6%B0%91%E4%B8%BB%E5%85%9A_(%E6%97%A5%E6%9C%AC_1950)
MRA公式には次のような記述が残る。
(1959)夏、スイスのコーにおけるMRAの集会に参加していた加藤シヅエ参議院議員(社会党右派、GHQの要請を受け出馬、日本初の女性国会議員。優生保護法の生みの親)、塚本三郎衆議院議員をはじめとする社会党関係者のグループが、デンマーク、スウェーデン、ノルウェー、フィンランド、オランダ、フランス、英国を歴訪し、それぞれの国の社会主義政党の指導者多数と会見した。
https://www.mrafoundation.or.jp/CD/CD40/HTML1/09/0902.HTM
塚本三郎議員は、民社党の委員長(第5代)・書記長(第5代)だった。
加藤シヅエ参議院議員は、このときの体験を読売新聞への寄稿の中で、「各国の社会主義指導者達は階級闘争は既に時代遅れであり、(中略)原子時代の今日、階級闘争を押し進めることは核戦争への道であると考えている」と述べた。
完全にCIA/MRAの洗脳に騙されてしまっている。
CIAと正力・中曽根の策謀を後押しするように原子力に魅了されていたようだ。
デヴィッド・ロックフェラーの日本秘書といわれる山本正は、MRAハウス元理事長で、経団連第3代会長の植村甲午郎の親戚だった渋沢雅英らと共に1970年に第二のMRAと目される「JCIE(日本国際交流センター)」を設立した。
その山本正が別のシンクタンク「下田会議(日米関係民間会議)」を立ち上げた時に中曽根と共に支援したのは、民社党の長末栄一衆議院議員(後の民社党中央執行委員長)であった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E7%94%B0%E4%BC%9A%E8%AD%B0

MRA会報より
https://www.mrafoundation.or.jp/CD/CD40/HTML1/P/05-105.pdf
るいネット大西氏の「MRAの影響を最も強烈に受けたのは、後に民社党(現在の民主党)に連なる社会党右派だった」という調査は事実だった。
国際IC公式サイトには「労使のかけ橋」としながら次の記述がある。
架け橋とは言うものの、実質的には労組が篭絡されていった歴史だ。
1950年の東芝石坂泰三社長のコー世界大会参加以来、MRAは東芝、国鉄、石川島播磨重工など労使対立の激しい企業における労使間の信頼醸成活動を行った。
1977年~87年まで東芝労使代表が、スイス・コーの産業人会議に出席。
この間国鉄、住友グループ、近鉄、日産自動車、日本通運、ジャスコ(現イオン)などの経営者や労組幹部も参加。
https://www.iofc.jp/about-ic/labor/
全日本労働組合会議(全労)初代議長だった滝田実が1956年にブックマンと会談している。

1956年、MRA創設者ブックマンと全労の滝田実(*上記キャプションの「滝田修」は間違い)
https://www.iofc.jp/about-ic/japan-asia/
この滝田のことを覚えておいてほしい。
詳細は後述するが、滝田はCIAマネーが注入された男で、のちに国民民主党の支持母体となる「全日本労働総同盟(同盟)」の代表にもなる。
そして当時のMRAと最も関係が深かったのが経団連2代目会長を務めた石坂泰三が社長だったのが東芝だ。
石坂は1950年MRA世界大会の訪問団団長を務めている。

1956年、ブックマンと東芝の石坂
国際IC会長の藤田のブログによると次のような記述がある。
竪山利文元電機連合委員長の告別式に出席しました。
河野一義元東芝労組委員長や鈴木勝利元電機連合委員長など、スイスのMRAの国際労使会議でご一緒した方々による心のこもった弔辞に胸を打たれました。
https://y-fujita.com/archives/3524
竪山利文元電機連合委員長とは、東芝労働組合連合会会長のことで、後に全民労協議長、そしてあの連合の初代会長となる。
この堅山は、東芝社長で経団連第二代会長の石坂泰三の子飼いとして東芝に引き入れられ、労組の左右分裂に尽力した。
堅山自身がMRA会員であったかは確認できないが、大西氏の記述に「東芝の労組委員長がコーのMRA大会に参加した」とあるように、大きな影響を受けていたことは間違いない。なにより東芝労組は10年にも渡って参加しているのだから深い関係がないわけがない。
堅山が主軸となって、MRAの掲げた労使協調を旗印に同盟と連合を作ったのだから、同盟そして現在の連合こそがMRAの遺産とも言えるのではないか。

上掲した報道特集の動画にMRA運動に没頭した東芝労連の姿がある。10年間にわたって東芝労連をスイスのMRA本部に送り続けたとのことだ。
1967年、全労の滝田実(CIAから資金注入)は東芝労連に講師として招かれている。

https://toshiba-union.or.jp/ixtupan/hist/1948/index1948.html
また、竪山利文の兄・竪山利忠も労働運動家で、反共・右派の労働運動の理論家(拓殖大学教授・創価大学経済学部教授)だった。
民主社会主義連盟理事でもあった。民主社会主義連盟は右派社会党の理論的支柱として創立され、民社党の思想・理論・政策を準備した。
https://enpedia.rxy.jp/wiki/%E6%B0%91%E4%B8%BB%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E9%80%A3%E7%9B%9F
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%AA%E5%B1%B1%E5%88%A9%E5%BF%A0
この他にも、とにかく多くの民社党や労組関係者がMRAと会合を重ねている。
昭和35年(1960)7月、広島選出衆議院議員谷川和穂、参議院議員近藤鶴代、国労九州地評議長太田末男、都教組の前書記長神部英雄、三井造船、東洋工業等の労組役員等総勢60名のグループが羽田空港を出発してスイスのコーに向かった。
https://www.mrafoundation.or.jp/CD/CD40/HTML1/13/1302.HTM
- ティム・ワイナー「CIA秘録」第12章(2008)
MRAはCIAの左派潰し工作として機能した。
労組の解体・衰退の背後にはMRAやCIA、そして自民党と経団連の思惑があったが、労組自体も支配層に取り込まれ軟化していったほか、経済環境の変遷なども原因として大きかった。
このあたりの話は極めて複雑なので、また後述する。
MRAと、民社党とその支持母体「同盟」は反共と労使協調を旗印にしている。
この三者は「反共・労使協調」と叫びながら、左翼共産主義者・社会主義者を弱体化させ、その基盤であった労働組合をも弱体化させた。
この共通項は決して偶然ではない。
結果として現在、労働組合加盟率はわずか16%となり、労組にはまともな賃金交渉能力がなくなってしまった。
そればかりか同盟が主軸となる連合が幅を利かせ、経団連と自民党のやりたいようにさせながら、自身らは労働貴族としてふるまっている有様だ。
CIA、MRA、民社、同盟の望んだ通りの地獄が拡がっている。
MRAは、国際ICのほかに「日本国際交流センター(JCIE https://jcie.or.jp/index.html)」にも後継されたという。

日本MRAの本部は1976年以降、山本正(ロックフェラーの秘書)のもとで「日本国際交流センター(JCIE)」に引き継がれた。
JCIEは日本におけるロックフェラーの利権を代表し、MRAの本部であり、さらに日米欧三極委員会の事務局であり、CFRのプログラムさえ行なってきた。
(ジョン G.ロバーツ、グレン・デイビス「軍隊なき占領: 戦後日本を操った謎の男」 2003、p,237)
山本正が政治に関わったのは、小坂徳三郎の国会議員初当選のとき、選挙運動の事務局長としてだった。
保守派旧勢力とのコネクションという点では、徳三郎は、まず、三井物産の元取締役三井弁蔵の娘で、しかも岡部長景の孫にあたる女性と結婚した。
東条政権の文部大臣だった岡部は、戦前、日米間の橋渡しをした国際文化振興会の理事長をつとめた人物でもある。
また、徳二郎は山本正の力を借りて「国際教育会」(CIAのパイプ)と、「日米関係民間会議」を創設した。後者は各界の有力者を集めて、二国間の重要な政治問題を話し合う、通称「下田会議」を開催していた。同会議は九回に及んだ。
下田会議の創設に際しては徳二郎の力があったかもしれないが、実際の運営をしたのはほかならぬ山本であった。 一九六七年の第一回開催にあたって山本は、MRA時代の知人の援助を受けたが、そのなかには中曽根康弘が含まれていた。
一部の資金は、アメリカと強力なコネを持つ財界人から寄せられた。そのほとんど全員が、麻布のMRA本部のビルとなんらかの直接的関係をもっていた。
(ロバーツ、2003、p252)
小坂徳三郎は大平内閣で経済企画庁長官、鈴木善幸改造内閣で運輸大臣(53代)などを歴任した自民党の衆議院議員だ。
信越化学工業社長・会長、信濃毎日新聞社長を務め経団連、経済同友会などの役職について財界活動も行った。
田中角栄の後押しもあり、総理総裁候補として、大平、中曽根康弘とともに「大中小」とも称された。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%9D%82%E5%BE%B3%E4%B8%89%E9%83%8E
山本正自身は米諜報機関との直接的関わりを否定しているが、彼のキャリア形成期のアドバイザーで、親交のあった人間のなかには、コネクションをもつ者が何人もいる。
たとえば、70年代にフォード財団の代表として東京にいたカール・グリーン〔CFRメンバー〕は、山本の大親友で、一時はアドバイザーだった。
グリーンは、CIAの機関だったハーバードの中国問題研究プログラムの出身だ。
(ロバーツ 2003、p,256)
有名CIAエージェントのジェラルド・カーティスと山本正が1982年に共著した「日米の責任分担 :下田会議レポート」なる書籍がある。
この情報は「日本国際交流センター(JCIE)」のサイトに堂々と掲げられている。
https://recordjcie.com/publication/publication-14309/
それもそのはずで、ジェラルド・カーティス自身が現在もJCIEの理事を務めている。
https://jcie.or.jp/aboutus/board.html
カーティスが処女作「代議士の誕生」を著したのは、佐藤文生という自民党議員候補への取材を通してだったが、その佐藤をカーティスに紹介したのがなんと中曽根であった。
何から何までがMRA/JCIE人脈である。
(中田安彦「ジャパンハンドラー」2005, p87)
国際ICと同じようにJCIEも現在も存続しており、JCIEは現在でも三極委員会の代理機関でもある。
https://jcie.or.jp/program/trilateral-commission.html
三局委員会やJCIEは、日米エスタブリッシュメント層のネットワークがベースになり、皇族や旧華族、財閥、政治家などが緊密な協議とレクリエーション活動で親交を深めた。
(中田安彦「ジャパン・ハンドラーズ」2005、p43)
現在の国会議員のJCIE賛同人は画像の通りとなる。

https://democracy.jcie.or.jp/wp-content/uploads/2020/04/Democracy-DC-mission-EN_120219.pdf (2019年時点)
国民民主党の元副代表(現在は立憲)の津村啓介は2007年に世界経済フォーラム(ダボス会議)のYoung Global Leadersの一人に選出されているので、キッシンジャー/中曽根/MRAルートに乗っているのだろう。
【追記】さらには、なんと、JCIEのホームページには現代表の玉木雄一郎の名前もある!!JCIEが今話題のUSAIDの資金を繋いだということだ。
https://jcie.org/wp-content/uploads/2021/07/DietNGOReport-28reportJ.pdf
これは本当に驚きだ。いわずもがなだがUSAIDもまたCIAのフロント機関であることが確実だとされる。
それにしても、なぜこうも中曽根や山本正の周辺にCIA関係者が多いのだろうか。
中曽根の工作員疑惑について再度まとめる。
中曽根に早くから影響を与えたアメリカ人としては、セイヤーやキッシンジャーのほかに、ガストン・J ・シグ二世がいた。ガストンは占領軍の語学将校で、1950年代半ばに、「アジア財団(前身:自由なアジアのための委員会)」の東京代表になった。
同財団は、冷戦の旗の下に結集した知識人の拠点だったが、少なくとも18年間はCIAから資金援助を受けていた。
アジア財団を離れたあと、ガストンは国務省に入り、「ロン=ヤス」関係として有名になったレーガン大統領と中曽根の対話の仲介をつとめた。
(ロバーツ 2003、p,236)
私は、CIAに保管される機密文書を見つけた。
CIA長官宛てで「第三世界インテリジェンスセミナーの基調講演をサポートするポイントペーパー(1982年10月20日)」とされる文書で、そこには国務省、商務省、国防総省、国家安全保障会議、情報機関、学術機関から約80人で構成される、国務省主催の秘密会議について書かれている。
内容に関してはほぼ「開示不可」となっているが、アジア部門担当の参加者としてシグとセイヤーの名前が並んで記載されている。なお、この当時のシグの肩書はNSCスタッフとなっている。

https://www.cia.gov/readingroom/document/cia-rdp83m00914r000800120007-8
その4か月前にセイヤー宛てに、ヘンリー・ローウェンからこの「第三世界インテリジェンスセミナー」へ、責任者として招聘を受ける書簡がある。
ローウェンは、ランド研究所所長でレーガン政権で国家情報会議の議長、チェイニーの下で国際安全保障問題担当国防次官補、スタンフォード大学・フーバー研究所のシニアフェローを務めた生粋のネオコンだ。
https://www.cia.gov/readingroom/document/cia-rdp83t00966r000100040029-6
セイヤーと並び、シグも米国の対日諜報分野において重要人物だったことがわかった。
この二人と関係の深かった中曽根は極めて怪しいではないか。
CFR(外交問題評議会)は、ロックフェラーやモルガン、メロンなど金融資本家が主に政策を実現するために創設した。
1947年から73年までの大統領を含む閣僚のなかで、東アジアに関する主要政策策定者に占めるCFRメンバーの割合は、旧メンバーと現役メンバーを合わせると、なんと72パーセントにも達していた。
(ロバーツ 2003、p226、p239)
有名CFRメンバーは、カーター、ブレジンスキー、ジョン・F ・ダレス、アレン・ダレス、ブッシュ、アイゼンハワー、キッシンジャー、ラムズフェルド、アーミテージ、ナイ…などだ。
中曽根が後に原子力政策に邁進したきっかけは、ハーバード大学教授・CFR理事のキッシンジャーと知り合ったことであった。
セイヤーの紹介で、中曽根は1954年、初めてハーバード大の夏期講座に参加した。それがキッシンジャーのゼミナールだった。中曽根はそこで原子力の重要性についてたたき込まれ、キッシンジャーは中曽根を原発建設に誘導した。
キッシンジャーはユダヤ系ドイツ人であるが、ナチス時代にアメリカに亡命し、アメリカで成功した政治学者、政治家である。しかし、もともとは軍人であり、第二次大戦中はOSS(Office of Strategic Services、CIAの前身)でアレン・ダレスのもとで働いたスパイでもある。
戦後はハーバード大学大学院に進学し、学者をやりながらロックフェラー家のために活動をするようになる。彼の二番目の妻は、ネルソン・ロックフェラーの秘書をしていた女性であった。
中曽根はMRA・CFRのセイヤーやキッシンジャーを通してロックフェラーとつながり、政界で出世するきっかけをつかんだのだ。
https://isoladoman.hatenablog.com/entry/2019/09/18/181336
中曽根とその周辺の怪しさはこんなところとなる。
次回はいよいよ「第二臨調」の正体にせまる。
cargo



