「日本軍と戦った日本軍がいた」
何年か前に、NHKがドキュメンタリーで文禄・慶長の役を扱い、
沙也可について紹介したプログラムのタイトルがあります。
 
文禄・慶長の役は、兵力の面から考えたら日本側が有利だったのに、
なぜ敗戦したか?その理由のひとつを降倭だと考えています。
 
 
 
 
 
                   
 
 
 
 これは、私なりに思いついたことを書いたもの。
 
 
 
 
 
<鉄砲・鳥銃と李瞬臣(이순신)>
   朝鮮に鉄砲が伝わったのは、最初は壬申倭乱の3年前の1589年。
   対馬を通して入ってきたが、ほとんど広まらないまま、壬申倭乱を迎える。
   1592年4月、日本軍が鉄砲を持って攻めてくる。
   それから数ヶ月後に、李瞬臣将軍鉄砲の使い方の本を書き、
   朝鮮全土に、あっという間に鉄砲が伝わった。
   同じ時期に、沙也可は自分が鳥銃鉄砲の使い方を教えたと書いている。
   よくわからないけど、もしかして沙也可が李瞬臣に鉄砲を教えた
   何年か前、そういう内容を書いた小説が出てるんですよね~~
   その小説の作家は「沙也可と李瞬臣が交流した形跡がみられる」と言って。
   とにかく、この時期に、あっと言う間に鉄砲が広まったのは本当みたいです。
 
 
 
 
 
<權慄(권율)と幸州山城(행주산성)の戦い>
   權慄将軍も、韓国人で知らない人はいないくらい有名な人物。 
   幸州山城の戦いで、日本軍3万人を相手に、たった2300人部隊で勝利した
   この時の權慄部隊は、婦女達がスカートに石ころをつめて戦ったという。
   まるで、漫画のような奇跡が起こってるワケだ。
   そしてこの戦いが終わった後、權慄ら数人の将軍の推薦で
   沙也可金忠善の名が与えられ、朝鮮軍の部隊に正式に採用される。
   降倭のことを知る前は、權慄って将軍がすごいのかなんなのか、奇跡が起きたと思ってたけど
   もしかしてこの戦い、沙也可が權慄に重要な情報を送ってたんじゃないかという考えが・・・
   彼らは日本軍の戦法をよ~~く知ってる者達でしょ?
   有力な情報を与えられて、權慄は沙也可を信頼して朝廷に頼んだんでは
 
 
 
 
 
 
<慶長の役(丁酉再亂=정유재란;1597)>
   さて、朝鮮出兵は事実7年ほど続くが、2度目の大きな攻撃である慶長の役。
   この時は、もうすでにある程度の数の降倭兵がいたワケで、
   彼らは、日本軍の戦術をよ~~~く知ってる者達
   日本軍と戦った日本軍がいた
 
 
 
 
 
 
<李适の乱(이괄의 난;1624)>
   壬申倭乱が終わって間もなく、朝鮮王朝内部で反乱が起きる。
   この時も、金忠善らの降倭兵達が多数、鎮圧に当たった。
 
 
 
 
 
 
<丙子胡乱(병자호란;1636)>
   次は清と朝鮮との戦いが始まる。
   この時、金忠善曰く、「降倭兵の中で、まだ徴兵されていない者がおる。
               拙者がこの者達を引き連れて参上致す。ってなことで、
   この時北方の国境線沿いで守備に当てられたのは、降倭兵が多かったという
   王朝の記録によると、約150人ほどの元日本人っだった部隊が功績を挙げた
 
 
 
 
 
 
この降倭に関する話は、一時期(日本が韓国を植民地にした頃)、
作り話だとして葬られていたが、時が経つに従って、再び歴史の中に登場してきた。
金忠善は実際に子孫が存続しているんだから、実在したことはまちがいない。
 
 
いろんな本や資料を参考にはしてきたけど、賛否両論があって、収集がつかない。
日本語で書かれたものをいくつかあげるので、関心がある人は読んでみてください。
 
 
論文 
 
討論会 
 
百科事典 
 
個人プログ(?)

 

 

 

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