9月3日 Eテレの日曜美術館で、鹿児島出身の画家、八島太郎の生涯や作品が紹介されていました。
ネットからお借りしました
1908年、鹿児島県肝属郡(大隅半島)生まれ
画家を志して東京美術大学に入学しました。
やがてプロレタリア美術運動に参加し、特高警察によって妊娠中の妻とともに投獄されます。
釈放後、自由に創作できる場所を求めて渡米。
その後太平洋戦争が起こり、八島なりの祖国への思いで、犠牲になる日本兵を減らせないかと日本兵向けの投降ビラ作りなどに取り組みます。
終戦を迎え、米国の通訳として帰国しましたが、友人に
「村では君を米国のスパイだと言っている。今は帰ってこない方がいい。」
と言われて帰郷はかないませんでした。
1962年.、終戦から17年を経てやっと帰郷しましたが、故郷にアトリエを建てたいと思っても土地についての村からの返信はなく、
「故郷は遠きにありて想うもので、自分だけが実現もしない夢を見ているのかもしれない」
そんな気持ちを抱えて、1994年米国ロスアンゼルスで85歳の生涯を終えました。
番組の中で八島氏の作品がいくつか紹介されていました。
氏の代表的な作品
コールデコット賞次席(1956年)
絵本にっぽん賞特別賞(1979年)
入学した日から先生をこわがり、クラスの誰とも友だちになれず、ちびと呼ばれて一人ぼっちで過ごしていた男の子。
でも、ちびが6年生になったとき、ちびの豊かな感性に目を向けてくれる先生と出会います。
わたしもその本を読んでみました。
どこまでも孤独で、いつまでも経っても孤独な「ちび」。
その孤独を言葉以上に表す力強い絵に胸を打たれ、こみ上げてくるものがありました。
6年生になって担任が代わると、ちびの世界が少しずつ変わっていきました。
先生はちびの絵や習字を壁に貼り、二人だけで話をし、学芸会で「烏の鳴き声」を発表させました。その日からちびは「からすたろう」になりました。
孤独な学校生活の中で、ちびがどれほど豊かな感性を培っていたか、ちゃんと見てくれた先生がいたことに、また涙がこぼれました。
八島氏自身は医者の息子として裕福な家で育ち、どちらかというと弱い立場の級友を思いやるような子ではなかったと語っていました。
アメリカで非常な孤独を感じ、そのときにそういう級友ばかりが思い出されと。
雨傘を買ってもらったモモが、雨の降る日を待ちきれないようすや、傘にあたる雨音の楽しいリズムが、これも力強い絵とともに描かれています。
こんなすてきな子ども時代があり、こんなすてきな絵本にしてもらえて、何て幸せなんだろうと思いながら見ていました。
でも、気づかないだけで、きっとどの子もモモだったはず。雨傘じゃないかもしれないし、雨の日じゃないかもしれないけど、こんなふうに初めてのものを大切に思い、胸弾ませていたことがあったはず。
大人になった子どもにも思い出してほしい世界です。
鹿児島はわたしの故郷でもあります。
わたしの父も絵を描くことが好きでした。
父と近い時代を生き、父が生まれ育った台湾を思いながら過ごしたように、八島氏も米国で成功はしても日本や故郷によせる思いは寂しさを伴っていたことがしみじみと伝わってくる番組でした。
「日本で生育したんですから、自分を今日あらしめてくれたいろんな出来事、楽しかったこと 意味深かったこと、それを私は大切にしてそれを伝えたい。」
八島太郎が描いた鹿児島の海、鹿児島の空は、どこまでも遥かで美しく、そしてどこかに少し寂しさを感じさせるものでした。






