今日は教室は立禅がメインでした。
現在はまだ生徒数が少ないので、第二、第四が夜の部と分けて稽古日を設定しています。
もう少し生徒が増えてきたら、昼夜共に毎週木曜の稽古日を設定するつもりでいます。
よかったブログをご覧の皆様も一度体験に来てみてください。
昼の部では高齢者の方や主婦の方が稽古されています。
その写真を撮ってきたの紹介します。
木曜日では主に心体操法の修得がメインとなっています。
突き、蹴り、投げ、関節などの激しい武術的な動きは一切やらずに、意拳でみられる立禅、推手、合気道でみられる転換を主な稽古としてやっています。
この日の目的は上半身と下半身の繋ぎの調整、筋力ではなく骨や重力を利用しての力のかけ方、過疎度運動後を使わず等速運動において動く運動法、自律神経の訓練です。
まず立禅では手や足だけの力に頼らず体全体で動くことを修得する為に挙式→抱式→安式→抱式→順式、逆式の順番で行っていきます。
その立禅で学んだ心体操法を確かめる為に、推手や転換で確かめるといった内容となっています。
私の武禅館道場
の基本の中では、立禅と呼んでいます。
たったこれだけの練習ですが、武術においては最も重要な稽古であり、また日常の生活においても体を故障する原因となる、うねる、ためる、捻る、地面を蹴る、居付く…といった悪い動きを矯正する最も大切な稽古であります。
実際に昼の部では77歳の女性の方が熱心に稽古し、歩きがスムーズになり、膝痛も緩和したほどです。
写真はその方が抱式を行っているところのものです。
見学、体験について詳しい地図を知りたい方は、武禅館ホームページにて心体操法教室の紹介をクリックしてください。
ホームページはこちらから→新日本兵法武禅館
日本の道徳観念復活には、武術教育が必要。武禅館の理念。
政治心理学者を本業に持つ人間がなぜ、武術の道場を設立したのか?
…と疑問に思っている方も多くいらっしゃるようです。
ですが、それ以上に武術の普及そのものが、日本の落ち込んだ道徳観念を復活させる礎になると考えたからです。
さて。
「武道は人の心を育てる」という言葉をよく耳にします。
辛い稽古を継続することによって諦めない心を学んだり、自分が痛みを知ることによって相手の痛みを分かるようになるといったものでしょう。
もちろん、それはとても大切な学びです。
しかし、学ぶことがそういった精神論だけならば、何も武道でなくても学び得ることができます。
館長である私は「武道」という言葉は武の本質を浅くしてしまうのではないかと考えます。
だから私は自分の扱う武を「武道」ではなく、「武術」と呼んでいます。
武術の技、術理は本来、無駄な力を除いた体の使い方で以って相手を制することにあります。
例えば、力任せに拳に全体重を乗せた殴り方では、相手に重みを感じさせることはできても、臓器にまで響くように効かせることはできません。
それは相手が無意識的に殴られることに反発して筋肉を固め、力と力がぶつかり合うようにして、ある程度打撃の威力を相殺しているからなのです。
たしかにベンチプレス150キロ近く上げるほどの尋常ではない筋力を以ってすれば、どんな滑稽な殴り方をしても臓器まで威力は届くでしょうが、それは少しでも稽古を怠って筋力が低下すれば相手にダメージを与えることはできません。
本来の古の武術では、相手を殴るにしてもあえて拳に力を入れません。
緩みきった力の入ってない拳で触れられるものですから、相手は無意識的に反発を起こさず、筋肉を固めません。
相手の緩んだ筋肉にスッとめり込んだ瞬間に、一瞬だけ力を加える。
そうすることで、弱い力でも相手の筋肉を掻い潜り、臓器にまで打撃を浸透させることができるのです。
即ち「力み」とは攻撃しようとする意志であり、「緩み」とは相手を寛容する意志です。
攻撃する意志を排除し、相手を寛容することで結果として相手を制することができる。
これは実生活でも同じことが言えます。
相手に対して寛容な意志で以って接していれば信頼が生まれ、結果として相手を上手に動かすことできます。
これが私のいう「術即道」の概念です。
また、その反対も然りで、実生活で得た考え方を武術の理として活かすように研究を重ねることが今後とも必要であり、それが「道即理」の概念です。
このように武術の悟りは実生活の悟りであり、武術の成功法則は人生の成功法則であります。
言い換えてみれば武術とは体を通して開悟を促す禅であるともいえます。
その理由から私は流派名を「武禅館 」と名付けました。
そして宗教に対する嫌悪感が募り、伝統宗教から悟りを学ぶ慣習が失われた現代日本では、武術を通して悟りを開く楽しさを伝えることが、この国の道徳心を高めることに最も貢献できることだと思います。
だから私は武禅館 を全国各地に支部を置くほどに成長させたいと思っております。
辛い稽古を継続することによって諦めない心を学んだり、自分が痛みを知ることによって相手の痛みを分かるようになるといったものでしょう。
もちろん、それはとても大切な学びです。
しかし、学ぶことがそういった精神論だけならば、何も武道でなくても学び得ることができます。
館長である私は「武道」という言葉は武の本質を浅くしてしまうのではないかと考えます。
だから私は自分の扱う武を「武道」ではなく、「武術」と呼んでいます。
武術の技、術理は本来、無駄な力を除いた体の使い方で以って相手を制することにあります。
例えば、力任せに拳に全体重を乗せた殴り方では、相手に重みを感じさせることはできても、臓器にまで響くように効かせることはできません。
それは相手が無意識的に殴られることに反発して筋肉を固め、力と力がぶつかり合うようにして、ある程度打撃の威力を相殺しているからなのです。
たしかにベンチプレス150キロ近く上げるほどの尋常ではない筋力を以ってすれば、どんな滑稽な殴り方をしても臓器まで威力は届くでしょうが、それは少しでも稽古を怠って筋力が低下すれば相手にダメージを与えることはできません。
本来の古の武術では、相手を殴るにしてもあえて拳に力を入れません。
緩みきった力の入ってない拳で触れられるものですから、相手は無意識的に反発を起こさず、筋肉を固めません。
相手の緩んだ筋肉にスッとめり込んだ瞬間に、一瞬だけ力を加える。
そうすることで、弱い力でも相手の筋肉を掻い潜り、臓器にまで打撃を浸透させることができるのです。
即ち「力み」とは攻撃しようとする意志であり、「緩み」とは相手を寛容する意志です。
攻撃する意志を排除し、相手を寛容することで結果として相手を制することができる。
これは実生活でも同じことが言えます。
相手に対して寛容な意志で以って接していれば信頼が生まれ、結果として相手を上手に動かすことできます。
これが私のいう「術即道」の概念です。
また、その反対も然りで、実生活で得た考え方を武術の理として活かすように研究を重ねることが今後とも必要であり、それが「道即理」の概念です。
このように武術の悟りは実生活の悟りであり、武術の成功法則は人生の成功法則であります。
言い換えてみれば武術とは体を通して開悟を促す禅であるともいえます。
その理由から私は流派名を「武禅館 」と名付けました。
そして宗教に対する嫌悪感が募り、伝統宗教から悟りを学ぶ慣習が失われた現代日本では、武術を通して悟りを開く楽しさを伝えることが、この国の道徳心を高めることに最も貢献できることだと思います。
だから私は武禅館 を全国各地に支部を置くほどに成長させたいと思っております。
ようやく様になってきた「意抜き」の技法
今日はまだ頭痛が残っていましたが、合気道の稽古に行って来ました。
ツイッターを読んでくれている方はご存知でしょうが、僕は主宰している体術&剣術の武禅館
の他に、他武道から技術を学ぼうと合気道、韓氏意拳、鹿島神流剣術を並行して習っているのです。
ですので毎週のように運動しています。
今日のように少々の頭痛なら汗をかいて一気に元気になれるのです
合気道自体は習いだして約3ヶ月弱。
ようやく技の中に術理を活かすことができるようになってきた次第です。
合気道は直接、相手の手首を持つ為に意抜き(合気道用語ではありません)がしっかりできているかが鍵になります。
意抜きとはその名の通り、意識を抜くことをいいます。
例えば相手に右手を持たれ、それを引き抜こうとした場合、どうしても持たれた右手に意識が集中してしまい、右手に思い切り力をかけてしまうでしょう。
人間には力に対し、無意識的に力で反発しようとする本能があるので、それでは力勝負に陥ってしまい、結局力の強い者が勝利するという結果になってしまいます。
それでは技の意味がありません。
技を十分にかけるには力勝負になら無いための工夫が必要です。
そこで本来、力をかけるべき部分をあえて力を抜く。
どうしても力には力で抵抗してしまう本能があるので、力を抜く為には意識自体をそこから抜く必要があります。
それが「意抜き」という古武術の術理なのです。
古武術の術理はいわゆる心の領分であるのです。
合気道は現代武道ですが、大東流合気柔術が元になっているので、古武術の要素を色濃く残しています。
心の領分だからこそ、武道名に「気」という言葉が入るのでしょう。
打撃を使う分には「意抜き」は十分に行えるようになりましたが、合気道のような投げや関節はどうもまだまだ。
まぁ、まだ習って3ヶ月だから仕方ないといえば仕方ないのですが、武禅館道場
のスパーリングの際に合気道の投げを使おうとしたら、ただの力技になってしまいました。
まだまだ修行が足りませんね
