鍋を洗うのにはタワシでゴシゴシ徹底的に。
掃除ははたきをかけて掃除機をかけて拭き掃除、を家中全部。
お料理は何品も作る。
お米を研ぐ時も丁寧に丁寧に丁寧に。
洗濯は単体だと大したことなかったけど、糊付けとか含めて他の家事の合間をぬってやるのがもう無理。
でもこれ、実は自分に合わないやり方を教えられていた&採用していただけだったな、と今は思えるのです。
気付いたきっかけはとても些細なこと。
ある日の食後、お茶でも飲もうと立ち上がる。
ついでに流し台に洗い物を持って行こうと、お皿とお茶碗とお箸だけを持つと、母が
「これもあるで」
ってお漬物の鉢だったり醤油さしだったりを渡そうとする。
まぁ言うて本当に些細なことなんですけど、そんな時に私はゲンナリとしてしまう。
すると、意識はしていないまでもイヤそうな顔になってるんでしょうね、今持って行かへんかったらやらへんやろ、なんて文句を言われたり。
私自身は、何が嫌なのかを明確に意識していなくて、説明出来なかったんですが、最近になって無意識に母に言い返してから初めて自覚したことがありました。
「あのね、用事は軽めに、回数でこなす方が楽なんよ、私。」
言ってから気づきましたよねw
私、確かに、何か用事をするのにも、軽い負荷で複数回に分けた方が楽に動けるんです。
さっきの例であれば、
洗い物を流しに持って行く→ケトルに水を入れてスイッチ入れる→急須にお茶っ葉をセットする→居間に戻って残りの鉢やなんかを台所に持って戻り所定の場所へ片付ける→この辺りでお湯が沸くので急須にお湯注ぐ→湯呑みと急須を居間に持っていく→お茶飲む→湯呑みを流しに持って行く→お茶碗ほかと一緒に洗う
文章で書くと分かりにくいかもですが、小さな「ついで」を繰り返しながら、居間と台所を往復している感じです。
前者後者論的には、この動き方は前者Bタイプ的。
私の不快感は、この動きを止められること、そこに耐荷重をオーバーした荷物を積み増しされるストレスによるものでした。
自分の馬力に合わせた負荷と導線を重視。
母は、獲れ高優先。
なんでも一度で済ませたい。そして、やった実感が欲しい人でもあります。
それが母に向いたやり方なのかと言えば分かりませんが、そもそも一度でまとめてやっちゃわないと、忘れちゃうからってのはある。
で、お湯を沸かしながら洗い物をやっているうちに、別のことが気になってお湯を沸かしていたこともお茶を飲もうとしていたことも忘れる。
BH後者あるある。
加えてウチの母は(意識の)視野に死角が多いというか、興味のある物以外は背景になってしまうタイプなのです。
だから、私にも醤油さしが見えていないと思って、親切のつもりで視界に入れてくれているんですね。
まさか見えているのに意図的に置いていく人がいるなんて、思いもよらないらしい。
ここら辺が私と母のすれ違いポイントでした。
ちなみに冒頭に書いた、鍋をゴシゴシと力いっぱい洗うのも、家中の全力掃除も、お料理の手間をかけていたのも、母のやり方でした。
私は軽くやっちゃうので、母にとっては物足りなかったのか、床拭きもゴシゴシ推奨。
しかも終わりが見えないものだから、とてもじゃないけど体力がもたず、どんどん家事に苦手意識が…
ところが当の母自身が、歳と共にこのやり方が出来なくなり、今は家事をやりたいのに苦手だと感じているようです。
テレビで栗原はるみさんのお料理の様子を見ていた母が、ふと
「…栗原さんって軽くやってはるな。サラッと食器も鍋も洗ってる。私は力入れすぎかもしれん…」
なんて言い出しまして、聞けばどうやら母は力を込めるのが良きと思ってそうしていたのではなく、力加減が出来なかったようです。
それが当たり前の母が私に家事を教えると、そりゃ力一杯になりますわね。
この必要以上の全力投球と、力の加減が出来ない感じは、モロー反射の影響かも。
あなたはどうですか?
家事に限らず、子供の頃に教えられたやり方、苦手なやり方のまんま、続けてることはないですか?
苦手な理由を挙げて吟味してみたらあ意外にアレっ?これ別にこのやり方じゃなくて良くない?って思うこと、見つかるかもしれないですよ。
ちぃ

