自己プロデュースコースの課題、ストーリープロフィールを書いています
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さて、いよいよ中学生・・にと思ったのですが、ちょいと思い出したので書いておきます。
中1の時。。
毎朝一緒にトレーニングに付き合ってくださった高校の陸上部の監督に、部員と一緒に
高校陸上の佐賀県大会につれていってもらったときのことです。
その高校の2年生の短距離の選手、たまえちゃん。
西城秀樹に似た、ちょっとかっこいい感じでした。
傷だらけのローラを遠征のバスで歌ってました![]()
大会当日、たまえちゃんは、100Mの出場前に脇腹がつったから今日は走れないと、
監督に訴えていました。
出場したところでどうせ予選落ちだしと自分で言ってました。
行きがけのバスの中では張り切ってローラ
って、熱唱してたのにね・・
そのときです。
困った監督が私を見て言いました。
「おっし、今日はおまえが、たまえだ。」
今から考えると、昔の人って結構適当~だったのね![]()
私はたまえちゃんの替え玉として、100Mに出場しました。
当時身長が158cmくらいはあったし、大人っぽいとよく言われていたので、誰も私が
中1なんて気づきませんでした。
予選をあっさり1位で通過し、なんと、なんと、あろうことに、
高校生の佐賀県大会100Mで優勝してしまったのであります![]()
大騒ぎになったのは、言うまでもありません。
その後のことは、私はこどもでしたから知る由もありません。
母はそれを知って青くなっていましたが、父だけは大喜びしてましたね![]()
中学生になった私、ついに反抗期がやってきました![]()
両親が「今日どうだった?」
と聞いてきたり、話しかけたりするのに、にいちいち腹をたててました![]()
思春期だったんでしょうね。自分でも不思議な感情でした。
親に反抗するつもりで、陸上部に入るだろうと期待されていたのを知りながら
やったこともないバレーボール部に入りました。
今から思えば、かわいい反抗ですよね。
それなのに、うちの親、「へ~またなんで?」みたいな、
軽いリアクションだったので、なぜかとってもがっかりしたのを覚えています。
運動神経はよかったみたいで、バレーをやっても1年から3年までレギュラーで、
エースアタッカー
でした。
3年のときは、キャプテン。
平行して、陸上の大会の時は陸上部の助っ人部員として出場し、練習もしてないのに、
ぜ~んぶ、優勝さらってました。デス。
成績もそこそこよかったので、毎年、校長先生から表彰状をもらっておりました。
父は益々喜んでいましたね。。。。
当時、健康優良児ってのがあって、体格・容姿・学力・運動神経、その総合点で
優劣を競うやつありましてね、それでいつも入賞してました。
歯並びまで審査されるんですよ。まるで、ミスなんとかじゃないかって、
祖父は怒ってましたけど。
大人からえこひいき、特別扱いされるのはその後もずっと続いていて・・・
受験前はバレー部の先生の家で、一人だけずっと数学を教えてもらっていました。
その先生は、私の結婚相手は絶対オレが見つけてくると口癖のように仰ってました。
美術の若い先生からは、卒業したらたぶん君は僕と結婚するだろうとか(今そんなこと先生が
言うと大問題ですよね)言われたりしてました。
その先生は私の眉が芸術的だと褒めてくれました。
眉が褒められるって・・・微妙![]()
卒業時に、先生達が書いてくださった色紙。
体育館、プール、運動場と、全部ひとりじめ。
誰よりも高く飛び、より早く走ったまぶしすぎる我らのマドンナ・・・と書いて頂きまして、![]()
今、これ書きながら気づいたのですが。。
私、本当にオトナに可愛がって頂きました。
いまさらながら感謝です。
そういえば、中学の時にお世話になった先生方は、私の結婚式の時はマイクロバスに
乗ってかけつけてくださいました~(笑)
そして、卒業。。
私立の高校からバレー部、陸上部への特待のお話がいくつか参りましたが、
お勉強もスポーツも両立できる県立の進学校を受験、
そして合格。
なんか、ぶな~んな私の人生。高校生活へと続きます。
>>>続く