感謝の道を歩みながら「何をやるか」等を考えたいならぜひ考えてみてください。

感謝を感じて、その中で考えたり、動いたりしていきましょう。

「今までとは変わるはずですから」


僕は明らかに変わりました。

20歳の5月からのものと、それ以前のものとは「全く別の世界」と言っても言い過ぎじゃないです。


感謝のない世界はよくあるものです。
人がよくやっていますから。

僕で言えば「将来、未来について怯えていました」

「これからどうなるんだろう?」等と不安や恐怖、心配ごと等たくさん抱えていました。



だからよく車を走らせて、夜中、河川敷に行っていました。

それでずっと川を眺めていました。


人間は水の方にいくと安心するらしいです。

だから無意識でよく行っていたのでしょう。

それで不安や恐怖を少し和らげていたのでしょう。



それが20歳の5月からは「一切行かなくなりました」

行くという発想も出てこなければ、行けと言われても「めんどくさい」って思います。




トンカツやオムライス屋でバイトしながら、暇があれば本を読んでいました。


「本を読む」ってこともしなかったのです。


「だって本を読むのが嫌いだったからです」(今もですが)



本はすごかったのです。

いちいち本を読むたび、人生が変わっていたからです。

小学生の時に夏休みの宿題の読書感想文の為に読んだ1冊の本から、「人生の乗り越え方を教えられました」

その本から「いいことをしていても、叩かれたり、理不尽な目に遭ったりするんだな」ということを教えられました。

「でもそれを乗り越えていけばいい」みたいなことを教わったのです。


川を綺麗にしていく男の物語でした。実話でした。


2冊目が「無」ばかり書いてある本でした。

この本で「ようはなんでも叶うんだな」と思えました。

多分ただの自己啓発書だったと思います。
タイトルも著者も覚えてないです。


3冊目が「チェスター・フィールドさん」という方の本でした。

15歳東京に降り立った僕はあまりにも知らないことが多すぎて、「世の中どうやっていけばいいのかがわからなかったのです」

そこに対して「こう生きればいいんだよ」と教えてくれた本でした。



2冊目と3冊目が15歳の時です。


4冊目が脳内革命という本です。当時のベストセラーです。

その本で自分なりに心と体とつながりについて理解して、当時、持病の腰痛から、水虫から、皮膚病からとあったのですが、全部それで治していきました。


ちなみに脳内革命という本がすごいというより、僕がすごいんだと思います。




このあたりで「本は宝の山だな、なんでも読めば解決するんだな」と思いました。



そこからは18歳の時に、彼女と本屋で待ち合わせで、5分ぐらいそこで本を読みました。

そこに「これがあったら、幸せになれると思っているうちは、手に入らない」という言葉に出会って、「本当にそうだな」と思いました。




以上が、僕の20歳までの本を読んだ経歴なのです。

「本を読むたび、いちいち人生が変わるのです」



だけど、本は読まなかったのです。


でも20歳の5月からふと「1日1冊本を読もう」と思ったのです。


理由は「単純に知らないことがたくさんあるから、知ろう」と思ったのです。



それで本を読むたび、「グサグサと金が矢が心に刺さり、死にたくなっていました」


読むんですけどね。整体みたいなものです。

「痛い」というものです。体に良いけど。


「ショック」「ショック」「ショック」って体験がたくさんありました。




トンカツやオムライス屋でバイト先では、「今までの自分なら絶対に取らない行動ばかりをよくとっていました」



どんどん人生が進んでいったんですね。



それで、バイトでの「今までの自分なら絶対に取らない行動」からなんか発展していって、いつのまにか不動産家に就職して、その1年後には年収1千万円以上となりました。



「なんかどんどん進んでいないですか?」




僕の頭の中にあったのは、別に何もないです。

「本を読む。一生懸命働く。人に親切」

この3つだけです。


「あと考えることはないです」


人生は迷いなしです。


自分のことは感謝してから、全部こたえが出ました。


たとえば僕が人生で1番何を望んでいるのかって、人それぞれこたえが違うでしょうが、僕の場合は、結婚して、僕が死ぬ間際ぐらいに奥さんに社交辞令ではなくて、「心から」一緒になってよかったと思ってもらえることです。


そう思ってもらえなければ、「僕の人生の間違い」です。

他いろいろ手に入れても、なんか成し遂げても、その一言を言われなければ「僕の失敗」だと思いました。


僕は単純にこの人生の逆算から生きているだけです。


これが1番で、2番目が「子供から尊敬される父親であること」です。


3番目が「一人でも多くの方に貢献すること」です。

あんどここに経済的にも豊かになり、せっかく生まれてきたのだから、世界のいろいろ観に行きたいよね、という思いもあります。


4番目も、5番目も考えたら出せたりするのでしょうが、「優先順位の低いものって人生で扱わないと思うんですよ」


だから出したところで無駄だと思ったので、考えませんでした。



ちなみにこういうのは考えて出したこたえではないのです。


「自分の中から読み取って出したのです」



自分の中にすでに書き込まれてあって、「それは多分多くの人はみれないのです」


でもそれがあって、「僕はそれをみた」ってだけです。



その表現が適切かどうかはしりませんが、僕はそんな感じです。



それでこういうこたえって、考えて出したものじゃないですから、

20年経っても、そのこたえは1mmも変わらないです。




「ゴールから逆算で生きているので、頭がスッキリなのです」



そこと「今」だけなのです。


それで当時の「今」のこたえが、「本を読む。一生懸命働く。人に親切」
 

この3つだけでした。



「あと考えることはありません」



僕はこんな感じになったのですがいかがでしょうか?

 

 

 

老子の「道徳仁義礼」というのがあります。

 

「道」が失われて「徳」(善や正義にしたがう人格的能力)があり、「徳」が失われて「仁」(おもいやり)があり、「仁」が失われて「義」があり、「義」が失われて「礼」がある。

 

そう老子は言われています。

(老子の影響が強く見られる兵法書の三略にも「道徳仁義礼の五者は一体なり」と書かれていたりします。)

 

 

徳が充分に備わっている人間は、徳そのものを意識する事がないので徳が離れる事は無い。

 

徳の少ない人間は、徳を失うまいとするあまりに徳が離れていってしまう。

 

徳が充分に備わった人間は無為を保ってことさらに何かをしようとはしない。

 

「徳の少ない人間は立派な人間になりたくて善い事をしようとする。」

 

例えば仁を重んじる人間は、「何か善い事をしようとする。」

 

義を重んじる人間は、「善い事をしながら自分も褒めてもらおうとする。」

 

礼を重んじる人間は、「自分がしている善い事を他人にも無理やりやらせようとする。」

 

 

つまり最初に「道」があって、

その後に人としての徳があり、徳が失われて仁があり、

仁が失われて義があり、義を失った人間が辿りつくのが礼なのだ。 

 

そう老子は言われています。

 

とくに礼などというものは、

人々から真心や信義が失われた後に作られたものであって、

これこそが社会を乱すもとと言われています。

 

仁や義や礼といったものを知識という形で教え込もうとすれば、

「道」からはずれた愚か者を生み出すだけだと。

 

だから本当に立派な人間というのは、手厚い真心を大事にして薄情な知識を捨てる。

 

物事の実を大事にして見栄えのよい花を選んだりはしない。

 

聞こえが良いだけの仁義礼といったものを捨てて「道」を選ぶ。

 

「直(なお)き心で行う (行=彳)+(直+心=悳)=徳」

 

つまりありのままの素直な心に従う事が「徳」という字の本来の意味である。

 

また「トク」という発音(漢音・呉音)は「得」という字に通じており、転じて「身についた性質」という意味で使われるようになった。

 

この章で言われる「上徳」は前者の意味であり、「下徳」が後者の意味。

 

ちなみに戦前の道徳教育(当時は修身と呼んだ)もあって現在では儒学的な印象の強い「道徳」という言葉も、もともとはこの老子道徳経の名前の由来である上篇の始めの文字の「道」と下篇の始めの文字の「徳」の字を併せて作られた言葉だと言われています。

 

成立年代のはっきりした中国の書物で「道徳」という言葉が使われるのは史記の老子韓非列伝に「老子は道徳を脩めた」と書かれているのが最初であると言われています。

 

 

 

「礼の世界。「義」の世界。「仁」の世界。

 

「徳の世界」「道の世界」

 

この5つの世界があると思います。

 

それで多くの方は「礼義仁の世界」にいたりすると思うのです。

 

そうではなくて「道徳の世界」があるのです。

 

その大きな1つの道が「感謝の道」だと思います。

 

その中で考えて動いていくのです。

 

その世界は「とても楽」だと思います。