僕の伝えたい責任とはたとえば、「あの人はどうせすぐに諦める」と「私が諦めさせない」との違いです。

これは1つの型です。この型でいろんなことに応用ができるし、また別の型もあるでしょう。


「あの人はすぐに諦める」が、観客席からものを思っている、言っている人です。

「私が諦めさせない」が、観客席から降りて、プレイヤー側に降りた人です。

これがパートナーシップです。





「あの人はすぐに諦める」が、観客席からものを思っている、言っている人は別に悪いわけではないでしょう。

むしろ「普通です」「一般の人です」

別にそう思って、何も自分を責める、否定する必要もないでしょう。

それを責めたり否定してしまえば、「ほとんどの人を責めることになります」


別になにも悪くないと思います。「普通」です。



「私が諦めさせない」が、観客席から降りて、プレイヤー側に降りた人は、普通の人ではないでしょう。


どちらかというと「すごい人」という部類に入ると思います。


悪く言えば「変な人」かもしれません。

 

その人のすごさがわからないと「変な人」となりますよね?




それで学校の先生が、自分の子供を、「あいつはすぐに諦める」と、観客席からものを思っている、言う人と、

「私が諦めさせない」と、観客席から降りて、プレイヤー側に降りて自分の子供と関わってくれる先生とがいたらあなたはどちらがいいですか?





「あの人はすぐに諦める」が、観客席からものを思っている、言っている人です。

「私が諦めさせない」が、観客席から降りて、プレイヤー側に降りた人です。

 

 

後者の人の例は、たとえば亀田史郎さんはいかがでしょうか?


亀田史郎さんは、息子3人を全員世界チャンピオンにされた方ですね。


それで以下、亀田史郎さんの言葉です。



「作文に書いた子供の夢の「夢」を実現させるのが、親や」


「子供の作文は、たしかに夢や。夢やけど、その夢に挑戦させるのが親の仕事やで」



「子供って、よく作文を書くやろ。あれ、ほっといたらあかんな。

「僕は将来、大きくなったらサッカー選手になって、
ワールドカップに出場したいです」とか、
「イチロー選手みたいに大リーガーになりたい」とか。
まあ、子供らしくて、他愛もないもんや。

だけどな、人が読んだら「ああ、そうか」ですまされるかもしれんけど、親はもっと真剣に考えてあげなあかんと思うわ。

なんしろな、他の子やない。自分の子供の夢なんやから。

ただ読んでたらあかん。


親はな、子供にな、「そうか、お前は将来、サッカー選手になりたいんか。じゃ、なれ」だけ言うたってアカンよ。

親は「よし、俺が世界で活躍できる選手にさしたる!」という気持ちが大事なんや。

たとえば、子供が「総理大臣になりたい」と言うたらな。

「よし、俺がさしたる!」って言えるか。

親がそれだけ言うには、親自身がどうやってこの子を総理大臣にさすか、わかってないと言えんわな。

だから、親もそこから子供の夢に向かって一緒に勉強や。」



「子供が何かやりたいって言ってきたからやらせたけど、いつまで続くんやろか。そのうち飽きてやめるやろ」と思っている親が多いと思うわ。

ほんで、親の予想通り、いつのまにか、子供がほんまに飽きたり、嫌なことがあってやめてしまう。

そんなんばっかりとちがうか。

それは親がいっしょにやらんからや!親が子供を信頼してへんからや。

どうせいつかやめるだろう、と思っている親がいたら、子供もやってておもんないからな。

子供がやりたいことを親がいっしょにやる。それも本気で。

そうなったら、子供も簡単にやめられへんで。おまけに親と子の絆も深まるもんや」



以上です。




親はな、子供にな、「そうか、お前は将来、サッカー選手になりたいんか。じゃ、なれ」だけ言うたってアカンよ。と言われていますが、「多くはそんな感じじゃないでしょうか?」


それが他人事、人ごとなのです。

「観客席からものを言っているのです」





親は「よし、俺が世界で活躍できる選手にさしたる!」という気持ちが大事なんや。と言われますが、これが責任ですね。


責任とは「パートナーシップ」という要素が含まれているのです。

「そうか、お前は将来、サッカー選手になりたいんか。じゃ、なれ」は、パートナーシップじゃないのです。




観客席から言っているというのと、プレイヤー側と観客席側ってまるで違うじゃないですか。

パートナーシップというのは、その観客席から降りて、「プレイヤー側に自ら降りていく」のがパートナーシップなのです。



すると「同じところにいますよね?」


観客席とは「違う場所にいるのです」


この違いわかりますでしょうか?





「子供が何かやりたいって言ってきたからやらせたけど、いつまで続くんやろか。そのうち飽きてやめるやろ」と思っている親が多いと思うわ。ほんで、親の予想通り、いつのまにか、子供がほんまに飽きたり、嫌なことがあってやめてしまう。そんなんばっかりとちがうか。」

と亀田史郎さんは言っていますが、

「そんなのばっかりじゃないでしょうか?」



そこについて、

「それは親がいっしょにやらんからや!親が子供を信頼してへんからや。どうせいつかやめるだろう、と思っている親がいたら、子供もやってておもんないからな。子供がやりたいことを親がいっしょにやる。それも本気で。そうなったら、子供も簡単にやめられへんで。おまけに親と子の絆も深まるもんや」

と素晴らしい回答をしてくれています。





亀田史郎さんは、別に何も押し付けていなかったりするのです。

「相手の言ったこと、思ったことをサポートをしているだけなのです」



相手がやりたいとも思っていないのに、「世界チャンピオンにさせてあげたい」と思い、子供を支配していたわけではないのです。


やりたいと言うから、「それを本気で応援する人なのです」



別に他人が観客席にいるのはいいんですよ。

でも「家族、友達、仲間、友人」が観客席にいたらダメだと思います。


それは「他人や知り合いは、観客席でいてもいいんですよ」

なぜなら「他人や知り合いだから」です。


ここの境界線が、「他人や知り合い」と「家族、友達、仲間、友人」の違いかなと思います。




「どう人と関わるかは自由なのですが、そのフィードバックは自分にやってきます」


それを踏まえた上で、どのように生きるのかは、自分で自由に選んでみてください。