「識別」のテーマからです。意外とよく人は「できない」や「苦手」等と思う、言うと思います。

僕もたまに言います。

「わかっていていうのはいいと思います」

あえてね。

だけど無意識に使わない方がいいです。

「本当にできなくなるし、本当に苦手となっていきますから」

 

それは単純な理由で、「できない」「苦手」等と言っていたら、やらないでしょ?

 

だからずっとできないまま、苦手なままです。

 

でもそう思ってもいいから、やればそのものは変わります。

 

人は必ず上達しますから。

 

ただそれと「あの人のレベルのようにはならないかもしれません」

(誰かと比較して「できない」「苦手」等と言っていることも多いです。)

 

やれば誰でも上達しますが、個人差はあるし、「あの人のレベルには辿り着かない」ということはあるかもしれませんが、別に辿り着かなくてよくないでしょうか?

 

ある程度のレベルには必ずいくと思うのです。

 

これが大事で、「できない」「苦手」と言ってやらなければある程度のレベルまでもいかず、ずっと下手くそなままです。

 

 

その状態を放っておいても支障がないならそのままでもいいでしょうし、支障があるならやるだけです。

 

支障があるのに、下手くそまままだとどうしますか?

 

「この状態を人を不幸にさせるのではないでしょうか?」

 

これは誰のせいって自分のせいですよね?

 

 



「できない」や「苦手」等と自分が言っていたら、その「自分を疑え」です。


識別です。


たとえば僕の奥さんは「運動が苦手」と言ったことがあるのです。


それで僕という人を知っているので、いきなり「運動が苦手とか言わない方がいいよ」と言って、「しょうちゃんは運動が得意だよ」と言ったのです。



「運動が苦手」と言う気持ちはすごくわかるのです。

だって僕も言っていたからです。


ある時から「僕は運動は得意だ」というところに生きることに決めたのです。


「運動が苦手」だと思い、運動をやるとどうなると思いますか?


疲れやすくなるし、続かなくなります。

するとどうなるでしょうか?

余計に「運動は苦手」だと思うのです。


「僕は運動は得意だ」と思うと、けっこう楽しくなるんですよ。


苦手と思うのと、得意だと思うのとでは何が違うのかって、「壁にぶつかった時に違うのです」


なかなかできなかったりした時に違います。

「苦手」だと思っていると、途中でやめたり、挫折します。続けないです。

「得意」だと思うと、あんまり諦めないんですよ。

だって「得意だと思っているからです」

それで諦めずにやっていると、できたりするのです。

するとその体験よりより強固に「得意」だと思ったりもするのです。




思い方によって「何が違うかって、壁にぶつかった時に違います」



何か進む時には必ず「障害」や「壁」等にぶつかると思います。

それらがなくてヒョイヒョイと進むことなんてないとは言いませんが、ほぼないです。


「障害」や「壁」等にぶつかった時に違うのです。


「苦手」と思い、進んで「壁にぶつかったらとても乗り越えづらい」です。



それでどうせやるなら「得意」だと思い、やればいいのです。


一生やらないと思うもの、一生やらないと決めたものについては、別に「苦手」とか「できない」とか言っていていいのです。


別に自分ができなくても「人ができたらいいわけですから」



「よろしく!」と言っていればいいのです。そんな頼み方はダメですが。


お金を払って解決できることも多いです。

お金を払って誰かに代わりにやってもらったりするわけです。


「金にものを言わせてもいいわけです」



「苦手だから代わりにやって」「できないから代わりにやってください」と人に依頼できるものはいいのです。


あとは一生やらなくても別に困らない、困っても別にそれを受け入れられるなら、「苦手だからやりません」「できません」でもいいのです。


だけど自分の進む道において障害となる「できない、苦手」においては、困るのは自分です。


そういうものにおいては「できない、苦手」と言わない方がいいでしょう。


言ってもいいのですが「やるだけ」です。

それでどうせやるなら「得意」だと思えばいいのです。


うまくやれるから得意じゃなくて、「得意にするのです」


「得意になれる!」と思いやればいいのです。


なんなら「僕は得意だ!」と思い、自分を力づけながらやればいいのです。



できないや苦手等と思ってしまう心は、所詮、過去の自分の経験です。

「人と比べて、できなかったりそういうのでしょ?」

あとは「やって笑われたりしたとかね」


そういう小さい頃の思い込みや自分の過去の体験が言わせているのです。

 



人に依頼できるものや、やらなくても支障がないものについては、「できない、苦手」等と言って、放っておいたらいいのです。

でもそれ以外の自分の進む道において「いちいちできないや苦手等と言う必要ってありますでしょうか?」


言うことよって予防線を張って、「それで進めるなら言えばいいのです」



「下手くそで笑われたくないから、できないや苦手等と言っておけば、まあ間違いないわけです」



人にどう思われるかを気にするのであれば、予防線をはって、歩めばいいのです。


でも別に人にどう思われてもいいと思うのであれば、「ただやるだけです」


そしてやれば上達していきますから。



それで、いちいちできないや苦手等と言うのもいいのです。

言うことよって予防線を張って、それで進めるならそれでもいいのです。


ただそれをやっても「人にどう思われるかを気にして歩めない人もいるでしょう」


思われるならまだしも、言ってくる可能性もありますからね。



だからその場合、選択です。

「人にどう思われるかを気にして、やめるのか」

「それとも人にどう思われるかを気にするけれど、やるのか」

です。




人にどう思われるかを気にしてもいいのです。

不安や恐怖が思う存分あっていいです。


僕のお勧めは「おしっこちびりながらでも、プルプル震えながら、「お母さん、助けて!」と言いながらもやればいいです」


子供はそれができるから「できるようになるじゃないですか?」


大人ができなくなるのは、「そういうことがかっこ悪くてできなくなるからです」



大人はなんていうか、「人の目を気にしない方法」みたいな本を読んだりして、それで、なかなかできなくて「わああ、できない」等と言うんですよ。


なんなら人の目をしなくなる方法を探して、旅に出かけたりもするのです。

それでお金と時間を散々したりね。



「そんなことは子供はできないのです。だってお金がないからです」


大人はお金がある分、立ちが悪いです。

変な行動をとりだすのです。



僕は子供のように「人の目を気にして、おしっこちびりながらでも、プルプル震えながら、お母さん、助けて!等と言いながらもやればいいと思います」


それがたとえ40歳の大の男でもいいでしょう。


僕はそんな感じです。


正直、おしっこちびりながらや「お母さん、助けて!」とも言わないですが。

プルプル震えながらやるぐらいです。

それでもしやれないなら、おしっこちびりながらや「お母さん、助けて!」等と言いながらやるだけです。



人の目をしなくなる方法等って、「ようはかっこよくやりたいんでしょ?」


でもそんな日はいつくるのでしょうか?



それなら、おしっこちびりながらや「お母さん、助けて!」等と言いながらやるだけです。



「かっこ悪い」と思われるかもしれないでしょう。


だけど、「本人は言い訳や正当化している意識はないかもしれませんが、ようはかっこつけて、やらない旦那や嫁がいたとします」


本人は誤魔化せていると思うかもしれませんが、「かっこ悪いのはやらないこと」です。

 

やらずにかっこつけている方が1番かっこ悪いと思います。

 

 

それで体裁や保たれている、人を騙せている、誤魔化せていると思っている方が問題なのです。



「いきなりかっこがつくかたちでやれることを望んでいたりするのです」

 

そこに人は囚われていたりするのです。



「下手くそでもいいからやったらいい」と言われたらどうですか?


下手くそでもいいんですよ。

「できない」ってありますか?



人は勝手にハードルを上げて「できない」と言うのです。


でもその「できない」の正体は、ようは「ナルシスト」です。

「ただのかっこつけ」なのです。



でもかっこつけられないのです。

「だって、やらないとどうせメッキなんてはがれるでしょ?」


やらないと、かっこつけられていると思うのは、本人だけでやらないと、かっこつけられないのです。

 



「できない」や「苦手」等のほとんどは「ようはかっこつけたいだけなのです」


「かっこ悪いのが嫌なのです」


ほぼそれだけだと思っていいのかなと思います。

 

 

だからかっこなんてつけられないのだから、「下手くそでもいいからやればいいのです」

 

どうせバレているのです。

 

 


それでもっと言えば、「あいつ下手くそ」だとか、「あいつかっこ悪うー」って人を馬鹿にしてきた人ほど、やることができません。


「やる人を馬鹿にする等してきたのです」


そういう人に思ったり、言ってきたことが、自分が歩むときに「障害」となります。


それが「最大の障害となります」



「やる人を馬鹿にする等してきたら、そりゃやれないです」


自分がやってきたことを「される恐怖がやってくるのです」



もしそれを解決したい場合は、「笑ったり、馬鹿にしてきた人に謝ればいいです」

ごめんなさいってね。

「あなたはとても素晴らしかった」と言えばいいです。



するとあーら不思議「やることができるようになるのです」



だからSNS等で「あれこれ人のことをボロカスに言う人いるでしょ?」

それは同時に「自分の人生の可能性を消滅させているのです」

やることができなくなるんですよ。




自分がやる時に困ったりするのです。


「いざ自分がチャレンジしようと思った時、できないのです」


怖くてね。

怖さが認識できるかは知らないですが。

「なんか動けない」とか言うだけかもしれませんが。



「だからあんまり人のことは思わない方がいいし、言わない方がいいのです」



もし自分が「できない」や「苦手」等と言い出したら、自分のその言葉をぜひ疑ってみてください。


「本当か?」ってね。

それで識別していきます。

 

それでようは「やるか」「やらないか」です。

 

やらないならそれはそれでいいし、やりたいならやればいいです。

 

「好きな方を選択してください」

 

 

最後に「やる」を選択される方は、ぜひ「徒然草 150段」に力づけられてください。

 

 

これから芸を身につけようとする人が、「下手くそなうちは、人に見られたら恥だ。人知れず猛特訓して上達してから芸を披露するのが格好良い」などと、よく勘違いしがちだ。こんな事を言う人が芸を身につけた例しは何一つとしてない。

まだ芸がヘッポコなうちからベテランに交ざって、バカにされたり笑い者になっても苦にすることなく、平常心で頑張っていれば才能や素質などいらない。芸の道を踏み外すことも無く、我流にもならず、時を経て、上手いのか知らないが要領だけよく、訓練をナメている者を超えて達人になるだろう。人間性も向上し、努力が報われ、無双のマイスターの称号が与えられるまでに至るわけだ。

人間国宝も、最初は下手クソだとなじられ、ボロクソなまでに屈辱を味わった。しかし、その人が芸の教えを正しく学び、尊重し、自分勝手にならなかったからこそ、重要無形文化財として称えられ、万人の師匠となった。どんな世界も同じである。