僕は「叶うかもしれない」
そう思い、生きるだけで幸せです。
「叶わなくてもいいのです。」
「叶うかもしれない」
そう思い、確率を1%でも高めていく為に、全力でやる、真剣にやる、本気でやる、一生懸命やる、自分のベストを尽くしていく。
それが楽しいのです。
ルーキーズで、御子柴さんが、
「行けないよ 甲子園なんか
でもこうやって努力してたら可能性はゼロじゃねーだろ」
「行けるかもしれない・・・・・・・
そういうのでいいんだ。
俺そういうのでいいんだよ」
と、嬉しくて涙を流していましたが、別にこれは甲子園を諦めているわけでないのです。
目指せることが嬉しいんです。
叶わなくても「成功」はあると僕は思います。
「叶うかもしれない」そう思った瞬間、「成功」を手に入れたとも言えます。
僕はそう思っています。
僕は
「叶うかもしれない」
そう思えるだけでいいのです。
僕にとって苦しいのは
「努力しても無理なんだ、叶わないんだ」
と思うことです。
はじめから叶わないという思い込みが僕の人生でありました。
でも、
「叶うかもしれない」
その世界に出会った時、そんな世界があったんだと思いました。
「叶うかもしれない」と思いやる。ベストを尽くす。一生懸命やる。本気でやる。真剣にやる。1%でも確率を上げていく。
最後叶わないかもしれないけれど、そこまで頑張ったものは自分のものであり、次に必ず活かせます。
等、こういう言ってみればあたりまえなことが、僕は長いあいだ、本当にわからず苦しかったです。
きっと「自分何をやっても無理。できない」等勝手に自分のつくった思い込みや、
「ベストを尽くす。一生懸命やる。本気でやる。真剣にやる。全力でやる。」
こういうことをやっていた時に、友達から「なにそんなことやっているの」とバカにされたり、笑われたりした過去があったのかなと思いました。
僕はわからなかったのです。
「叶わない」そう思い込んだ、その心が自分が自分のことを苦しめていました。
僕が苦しかったのはここです。
「叶うかもしれない」
そう生きれることが僕にとっては幸せです。
その中にいることが幸せであり、成功なのです。
夢の中にいます。
それは「夢中」です。
叶わなければ、悔しいし、悲しいです。
でも必ず言えるのは、振り返れば「素敵な青春の1ページ」です。
それも幸せなのです。
もちろんそのものが叶わない場合もあるでしょう。
それは「縁がなかった」と思い、次また目指せばいいのです。
何度もやっていると必ず「運命の人」みたいに出会いますから。
日本で1番大金持ちの斎藤一人さんの言葉を載せておきます。
僕が大好きな言葉です。
「私は、歌があまりうまくないんです。
うまくないんだけれど、でも、私が心の底から「歌手になりたい」と思うとしますね。
そうするとワクワクします。
そして、そっちのほうへ行くと、そこで知り合いになったり、
一生つきあえる人と出会ったり、いろいろなことをして人生は成功するんです。
で、歌手はなれないかもしれません。
でも、そこでかけがえないのない友人をつくったり、いろんな経験から学びを得る。
だからその人生は成功なんです。」
「叶うかもしれない」と思い、ベストを尽くす、一生懸命やる等をしていきます。
かりにもし叶わなかったとしても、「頑張ったものは、全部自分のものです」
そこで得たものや力は次に必ず活かせます。
それに叶わなくても、そこには「思い出」ができます。
高校球児が甲子園を本気で目指す。
でも一回戦敗退したとします。不幸でしょうか?
「仲間と日々過ごした素敵な思い出は平等に与えられます。」
叶わなくても、もし一生懸命やった。自分のベストを尽くした。「やりきった」
「でもダメだった」
叶わなくても、泣けたら「成功」です。
泣くというのは、一生懸命やった証拠です。
本気でやったのです。
もし高校球児が甲子園を本気で目指さず、
どうせ無理だからと思い、てきとうに野球やって、
「一回戦敗退したとします。」
多分、泣かないです。
「これを不幸と呼んでもいいと僕は思います。」
「叶う」と思う努力をするよりも、「叶うかもしれない」と思い歩んだ方が誰でもできます。
「叶うかもしれない」と思ったとします。
ワクワクします。
だから動けるのです。”行動をしてしまう”のです。
「叶わないかもしれない」と思ったとします。
悩み始めます。考えます。
だから動けないのです。”行動ができなくなる”のです。
「叶うかもしれない」と思う。だから動く。行動する。
どんどんいろんなものがみえてきたり、力がついてきたりします。成長します。
「叶わないかもしれない」と思ったとします。だから動かないです。行動しません。
ゆえに自分の力もつかないし、成長もしません。行動したからこそ「みえるもの」があります。それがみえないまま時を過ごします。
「本当に叶わないかもしれないですね。」
それに、「叶う」「叶う」「絶対叶う!」みたいにしてしまうと、それは完璧にするようなものになるかもしれません。
たとえば、
日光東照宮は柱の中の1本だけ、彫刻の模様が逆向きになっています。
誤って逆向きにしたわけではなく、
「建物は完成と同時に崩壊が始まる」という伝承を逆手にとり、
わざと柱を未完成の状態にすることで災いをさけるという、
言わば魔除けのために逆柱にしたとされています。
鎌倉時代の「徒然草」にも、「完全なものは決して良くはない」と書かれてあり、内裏を造る時も、必ず1か所は造り残しをするとあります。
江戸時代には、家を建てる時「瓦三枚残す」と言います。
完璧にすると『魔が差し込む』と言われているのです。
「うまくいくかもしれない」「叶うかもしれない」というのは、あえて「完璧にしない」といったような感じかもしれません。
「瓦三枚残す」「逆柱にする」という意味合いに捉えていただいてもいいと思います。
「うまくいくかもしれない」と「うまくいかないかもしれない」
この2つの言葉をぜひ比べてみてください。
同じ意味合いです。
うまくいくかどうかはわからないということです。
「うまくいくかもしれない」と、「うまくいかないかもしれない」とでやるのとではどちらがいいでしょうか。
絶対うまくいくと思いやるのは自由です。
むしろそうした方がいいです。
「絶対金メダルとってきます」とオリンピック選手は言います。
それでそう思いやった方がいいです。
けれどあることは、金メダルとれるかどうかはわからないのです。
保証はないということですね。
必ず自分の思考に「瓦三枚残す」「逆柱にする」
そういうことをやった方がいいと思うのです。
でないと完璧にすると、「不安や恐怖がどんどんやってくるからです。」
これが”魔が差し込む”と言われている、「魔」だと思います。
「うまくいく」と思えたとします。
だいたい3日経てば、「うまくいかないかもしれない」と不安や恐怖が頭の中に出ていたりします。
はやければ次の日に思います。
一週間経てば、「うまくいかなかったらどうしよう」等、今度は悩みや苦しみになっています。
これが「魔」だと思います。
たとえば、体のことでお伝えしますと、
「治るかもしれない」と「治らないかもしれない」
同じ状態です。
ようは治るかどうかはわからないのです。
それで「治るかもしれない」と思っているのは、治ることを決してあたりまえに思っていないです。
「治らないかもしれない」と思っているのは、どこか治ることをあたりまえに思ってしまっているのです。
「治らないかもしれない」と思うのは、不安や恐怖ですから、ストレスですよね。
逆に治らない方向に行っています。
「治るかもしれない」は、ストレスがないです。希望の言葉ですから。
明るそうですよね。笑顔が出ていそうですよね。
それで笑顔、笑うことは免疫力が上がることが科学的にも証明されています。
治る方向に向いていく感じなのです。
「治るかもしれない」は、そこに光や希望があります。
「治らないかもしれない」は、そこに暗闇や絶望があります。
同じようは治るかどうかわからない状態で、「自分がどんな世界で住むのかを選択ができる」のです。
たとえば、「治るかもしれない」と思える世界は、「天国」みたいです。
「治らないかもしれない」と思える世界は、「地獄」みたいです。
自分の進む道、天国を歩むか、地獄を歩むかを自分で選べられるのです。
治る治らないも含みますが、「叶う」「治る」と思い、「信じる」ことはとても重要だと思います。
でも同時に「叶わない」「治らない」可能性はあるのです。
だから、それを受けいれること。
それが僕は賢者の道かなと思っています。
「治るかもしれない」「叶うかもしれない」と思えるのは、「治る」「治らない」、「叶う」「叶わない」の両方を併せ持っています。
治らないこと、叶わないことをうけいれています。
その上で、「治る」「叶う」という可能性を持っているのです。
そうしたら、あとは「治る」「叶う」と信じて歩むのみです。
信じるのは、それが楽しいし、歩みやすいからです。
あとは、初心を忘れず、傲慢にならずに、治らないこと、叶わないことをうけいれておくことですね。
でないとニョキニョキって、「治らなかったらどうしよう」「叶わなかったらどうしよう」等の思いが出てきますからね。
治ること、叶うことは決して「あたり前じゃないですからね。」
当たり前に思ったら、感謝の気持ちを忘れてしまいやすいです。
叶う、治る可能性が持てるだけで、幸せです。
あとは、自分次第で切り開けるかもしれないのです。
そう思い、やれるだけで幸せです。
「結果について考えるのは、全託の反対であることを覚えておきな
仏教等でもあります。
全託とは、自分の思いを問題から引き離すことです。
叶う、叶わない、治る、治らない領域は「自分の領域ではなかったりしますから」
食物を育てるのと同じで「育つ環境をつくること」はできますが、芽を出すのは食物の領域ですから。
これはアドラーでいう「課題の分離」とも言えるでしょう。