・灯台下ッと暗し・・・(笑) | 日本哭檄節

日本哭檄節

サミュエル・ウルマンの『青春』の一節、
≪ 希望ある限り若く、失望と共に老い朽ちる。≫
こそ、人生の糧(よすが)か・・・!
既に古希寸前に達した今こそ、この言葉に励まされながら、さあ、もうひと踏ん張りしてみるか・・・(笑)

 前記事にも綴ったが、目下のジジイは、昼2時までの『指活バイト』が終わると、迷わず『異郷土史研究家』へと変ずる毎日・・・(汗)

 

 で・・・、目下勤しんで居るのは、穿り出した文書史料を頼りに『現地探索』を繰り返したり、『明治』と云う時代の考証史料漁りに、国立国会図書館のデジタルアーカイブスに潜り込んだり、地元の図書館での郷土史漁りに余念が無いのだが、これを漁って居ると、不意に、これまで行き当たって居なかった史料の断片に行き当たり、これを確かめるべく、また現地に走ったり

『図書館史料を読み返したり・・・!』

なのだが、そんな中で、『明治35年9月29日』に、地元宮崎新報(=現・宮崎日日新聞社)の都城通信社の記者が、翌々10月1日に、6カ月指導した『谷頭地区』を離れる『石川理紀之助翁』を訪ね、

『取材を訊き採った・・・』

と云う記事を発見・・・!

 

『ナニー・・・、これは捨て措けぬ・・・!』

と発したジジイは、どうしても、その記事が読みたい・・・!

 

 で・・・、こう云う時は

『恃みの国会図書館だ・・・!』

とばかりに、早速アーカイブに潜ったのだが、目指す記事は既に『Blue-Lay Disc版』に収蔵されて居るらしく、恃みの『電子遠隔複写』が使えないことが判明・・・!

 

 と云っても・・・、検索でヒットしないので電話で問い合わせたらそう云われた訳だが・・・(汗)

 

 その代わり・・・、
『宮崎からでしたら、関西館でも対応できますが・・・?!』

との御親切を頂いたが、この『関西館』と云うのは、

『副首都気取りの大阪・・・』

に在るのでは無く、何と

『京都府相楽郡精華町精華台・・・』

と云う処に在るのは、ジジイも以前調べて識って居るが、此処は、あの有名な『祇園』に近い処・・・!

 と為ると・・・、千代田か祇園の国会図書館に出向かなきゃ観れ無いってことを告げられ、今の財布の重さじゃ、羽田も伊丹も関空
(=LCC)も遠き夢・・・!

 

 しかし・・・、このジジイは、

『欲しい・・・!』

と想うと、歯止めが利かない我儘だから千代田も祇園も諦め、

『然ては・・・、地元、宮崎県の図書館なら・・・?!』

と想い立ち、今度は、遠慮無くTELでTry・・・!

 すると・・・、此方も『明治』と聴いて腰が引けた声に聴こえたが、膨大な発行部
(=日)数と記事の中から、取材日から7~10日以内の分を目途に漁って貰えないかと頼むと、迷惑そうな口調で、

『直ぐにはお応え出来ませんから・・・、調べて、1週間以内にご返事します・・・!』

と来たが、半世紀以上敬愛して来た

『理紀之助翁の宮崎滞在時の取材記事・・・!』

と識った我儘ジジイは、その一週間さえ待てない・・・(汗)

 

 で・・・、猛狂したジジイは、

『どうせ、ダメだろうけど・・・?!』

と小馬鹿にしながら、地元の市立図書館にTELを入れると、応対して下さった司書さんが、

『当館のデータベースでなら、観れますよ・・・!』

と仰るでは無いか・・・!

 イヤー・・・、これには驚いた・・・!

 今のITデジタル時代・・・、こうした新聞記事類は、全国どこの図書館でも共有されて居て、『デジタル・データベース化』されて、各館で共有されて居るのだそうで・・・!

 

『灯台下暗し・・・』

とはこの事だと想いながら、

『否々・・・、お見逸れ致しました・・・!』

と最敬礼して早速駆け込むと、応対して下さった司書さんが、ネット接続されたPCの処まで案内して下さり、使い方まで懇切丁寧に・・・!

 

 記者が翁に取材した日が判って居るのだから、その翌日から一週間くらいの内には掲載されて居ると想ってマウスを繰るが、何しろ、120年も前の地方新聞をマイクロフィルム化した後、更にデータベース化して居るのだから、その観難いこと・・・(笑)

 

 今のように『見出し』を大ポイント&太文字で『大袈裟』に刷(う)って有る訳では無く、こんな感じ・・・!

 

(画像は、宮崎新報・明治35年10月4日版より転写)

 

 都城通信社(=支局)が取材したから『都城時報』と云う囲みは在るが、見出しなど無く、一行目に、同じ大きさで

『△石川翁を訪ふ・・・』

と在るだけ・・・!

 

 この記事を見付けるまでに『10月24日頃まで』進んで、

『コリャア、おかしい・・・?!』

と引き返し、再度9月30日から再度読み探して二度目にやっと見つけたから、辿り着くまで約2時間・・・(汗)

 

 更にこの記事の嫌味なのは、最後の一行の下に『(つゞき)』の三文字が刷(う)って在るでは無いか・・・!

 

 ってことは・・・、以降の何処かに、この記事の『つゞき』が載って居るってことだから、それを諦める訳には行かぬと想い、必死に眼を凝らして10月末を通り越し11月10日までをクマ無く探したが、『都城時報』の欄に、『つゞき』の記事は見出せず、通信日の日付は遠退くばかりで、結局4時間粘って諦めた・・・!

 

 しかし・・・、この頃の地方新聞ってのは、拾い読みしても面白いですぞ・・・!

 

 先ず・・・、一応現代口語調で綴っては有るが、その使われて居る漢字熟語類には、全部ルビが振って有る・・・!

 

 明治35年は、まだ江戸時代から30年チョイだから

『字を読める庶民・・・』

事体が非常に少なく、読めても『いろはに・・・』くらいだったってことでも有ろうから、こうしなきゃ売れなかったってことだろう・・・?!

 

 それもだが・・・、この明治34~35年頃と云うのは永田町(=国家政治)も賑わって居たようで、あの伊藤博文首相から西園寺公望氏が登場し、『桂太郎内閣』が誕生する過渡期だったことや、明治37年の『日露戦争』を前に日露関係が緊張感を増して居ることが、日を繰る毎に判って来て、まるで近代日本を眺めて居るようで・・・!

 

 それと面白いのが、最後のページに一面掲載されて居る広告・・・!

 

(画像は、同上)

 

 中には、こんなヤツも有りましたよ・・・!

 

(画像は、同上)

 

『ルトスピ全安用身護・・・』(=右書き出しです・・・!)

何てのが、公然と売られて居たって識ってました・・・(笑)

 

『英國製・佛國製・米國製・・・』(=『獨國製』が無かったが・・・?)

の外に『内國(=国産)製』や『ダイナマイト』まで・・・!

 

 まるで、今のアメリカ社会と一緒だったって事ですなあ・・・!

 

 それに加えて面白かったのが、コレ・・・!

 

(画像は、同上)

 判りますかな・・・?!

 

 赤く囲った文字を読むと、『特別廣告』と在って、

『愚昧みち就學の爲め本日より同伴上京仕候・・・』

ですぞ・・・!

 

 日向宮崎から『父娘で上京』するのを、県内版とは云え、ワザワザ

『新聞の第一面の冒頭に特別に喧伝する趣味・・・』

には驚かされると云うか笑わせられると云うか・・・?!

 

 しかし・・・、120年前の日向では、それほど『首都・東京』とは、今なら宇宙に行くほど別世界だったと云うことで、この父上は、それを誇りたいほど高揚し、またそれだけの名誉と財力も有ったと云う証左でしょうな・・・!

 

 イヤー・・・、参りました・・・(笑)

 

 しかし・・・、たっぷり4時間愉しませて貰えて、

『古新聞 百年経てば 文化財・・・』

ってな貴重な体験でしたが、暇潰しには最高かも・・・(汗)

 

 案外、宝物が埋もれて居ないとも限らない気がした次第・・・!

 
などと・・・、まったく面白くも無い駄文にお付き合い頂いて居りましたら、お詫び申し上げます・・・(謝&拝)